©︎2020 Yuko Mohri
©︎2019 Kenta Kobayashi
「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はキュレーターの山峰潤也さんの場合。
Photograph_Ko-ta Shouji
Text & Edit_Rui Konno
「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はキュレーターの山峰潤也さんの場合。
Photograph_Ko-ta Shouji
Text & Edit_Rui Konno
“型を破ることの重みを
知らないといけないと思うんです“
“型を破ることの重みを
知らないといけないと思うんです“
―最初に、山峰さんのキュレーターというお仕事について、改めてご説明いただけますか? はっきりイメージ
できる人って意外と少ない気がするんです。
キュレーターというのは、美術館の展覧会を企画する仕事を指します。僕も10年にわたって美術館でキュレーターとして働いてきましたが、数年前に美術館を離れて仕事するようになりました。それからは企業や行政と一緒にアート事業を企画する仕事をしていますが、今の日本だと、そういう人はすごく少ないんですよね。
―それはなぜなんでしょうか?
大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭を手掛ける北川フラムさんのアートフロント(ギャラリー)だとか、森美術館の館長だった南條史生さんのN&Aだとかっていう先駆者がいるんですが、それに追随する人たちが現れなかったことが一番の理由だと思います。でも、コロナ以降、企業や行政の中でもアートに関心を持つ人たちが少しずつ増えてきて、僕みたいな新しい存在に関心を持ってくれる人が現れてきたことで、今では自分で会社(NYAW inc.)をつくって仕事ができています。アートフェアなどに付随するアートエキシビションの企画をしたり、新作のプロデュースに関わることもありますし、海外のアートシーンを視察したり、日本以外の美術館やアートフェスティバルがどういったエコシステムで回っているのかを調査することもあります。
―作品や制作以外の部分にも携わる立場だと。
そうですね。元々キュレーションという言葉はラテン語の“curare”という言葉から来ているんですが、この言葉はcareの語源でもあって。それが図書館や博物館の物を世話する仕事を指すようになっていきました。それが広がって、モノだけでなく、アートに関わる人や環境をケアしながらその土台をカルチーベート(耕す)するのもキュレーターの役割になっています。
―最初に、山峰さんのキュレーターというお仕事について、改めてご説明いただけますか? はっきりイメージできる人って意外と少ない気がするんです。
キュレーターというのは、美術館の展覧会を企画する仕事を指します。僕も10年にわたって美術館でキュレーターとして働いてきましたが、数年前に美術館を離れて仕事するようになりました。それからは企業や行政と一緒にアート事業を企画する仕事をしていますが、今の日本だと、そういう人はすごく少ないんですよね。
―それはなぜなんでしょうか?
大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭を手掛ける北川フラムさんのアートフロント(ギャラリー)だとか、森美術館の館長だった南條史生さんのN&Aだとかっていう先駆者がいるんですが、それに追随する人たちが現れなかったことが一番の理由だと思います。でも、コロナ以降、企業や行政の中でもアートに関心を持つ人たちが少しずつ増えてきて、僕みたいな新しい存在に関心を持ってくれる人が現れてきたことで、今では自分で会社(NYAW inc.)をつくって仕事ができています。アートフェアなどに付随するアートエキシビションの企画をしたり、新作のプロデュースに関わることもありますし、海外のアートシーンを視察したり、日本以外の美術館やアートフェスティバルがどういったエコシステムで回っているのかを調査することもあります。
―作品や制作以外の部分にも携わる立場だと。
そうですね。元々キュレーションという言葉はラテン語の“curare”という言葉から来ているんですが、この言葉はcareの語源でもあって。それが図書館や博物館の物を世話する仕事を指すようになっていきました。それが広がって、モノだけでなく、アートに関わる人や環境をケアしながらその土台をカルチーベート(耕す)するのもキュレーターの役割になっています。
―山峰さんご自身は、実際にキュレーターという仕事をどういうタイミングで志すようになったんですか?
僕は元々、作家になりたかったんですよ。舞台や映画とかの。だけど、大学院のときに色々あって挫折して。それで縁あってメディア芸術祭の事務局に入ることになって、そのオペレーションをずっとやっていたんです。その頃に募集があって、写真美術館に入ったのが最初です。それまではキュレーターになるという意識はなくて。でも、いわゆるアートの世界の裏方として入ったことで、キュレーターっていう仕事にたどり着いたっていう感じです。そこでどう一生懸命やっていこう、キュレーターっていう仕事はなんなんだろうって考えたのはその後ですね。
―そこから金沢21世紀美術館、水戸芸術館と渡って来られたと思うんですが、最初に写真美術館の門を叩いた
ときはどんなことを考えていたんですか?
元々メディアの発達やそれに伴う社会変化に興味があったし、写真美術館には学生時代からアルバイトで出入りしていたので、そこで働くことは僕にとって自然な流れでした。そこでは恵比寿映像祭などの仕事もあってやりがいはあったんですが、繁忙期には残業も多くて全然休みも取れない時期が続いてしんどかった面もありますね(笑)。
―本当に大変なお仕事なんですね。
でも、それから写真や映像のことだけじゃなく、さまざまな社会の側面を示す現代美術のことをもっと知りたいなと思ったんです。それで21世紀美術館に入れることになって石川に引っ越しました。当時は丸亀(市猪熊弦一郎現代美術館)に行った中田(耕市)さんとか、十和田市現代美術館の館長の鷲田めるろさんとか、コンサベーション(修復保存)の専門家の内呂(博之)さん、21美に長く勤められていた立松由美子さんがいて、その人たちがいろんなことを教えてくれました。写真や映像のことはわかるけど、それ以外の作品の扱いなどはもっと勉強したかったから、1年3ヶ月という短い期間ではあったけど楽しかったですね。
―山峰さんご自身は、実際にキュレーターという仕事をどういうタイミングで志すようになったんですか?
僕は元々、作家になりたかったんですよ。舞台や映画とかの。だけど、大学院のときに色々あって挫折して。それで縁あってメディア芸術祭の事務局に入ることになって、そのオペレーションをずっとやっていたんです。その頃に募集があって、写真美術館に入ったのが最初です。それまではキュレーターになるという意識はなくて。でも、いわゆるアートの世界の裏方として入ったことで、キュレーターっていう仕事にたどり着いたっていう感じです。そこでどう一生懸命やっていこう、キュレーターっていう仕事はなんなんだろうって考えたのはその後ですね。
―そこから金沢21世紀美術館、水戸芸術館と渡って来られたと思うんですが、最初に写真美術館の門を叩いたときはどんなことを考えていたんですか?
元々メディアの発達やそれに伴う社会変化に興味があったし、写真美術館には学生時代からアルバイトで出入りしていたので、そこで働くことは僕にとって自然な流れでした。そこでは恵比寿映像祭などの仕事もあってやりがいはあったんですが、繁忙期には残業も多くて全然休みも取れない時期が続いてしんどかった面もありますね(笑)。
―本当に大変なお仕事なんですね。
でも、それから写真や映像のことだけじゃなく、さまざまな社会の側面を示す現代美術のことをもっと知りたいなと思ったんです。それで21世紀美術館に入れることになって石川に引っ越しました。当時は丸亀(市猪熊弦一郎現代美術館)に行った中田(耕市)さんとか、十和田市現代美術館の館長の鷲田めるろさんとか、コンサベーション(修復保存)の専門家の内呂(博之)さん、21美に長く勤められていた立松由美子さんがいて、その人たちがいろんなことを教えてくれました。写真や映像のことはわかるけど、それ以外の作品の扱いなどはもっと勉強したかったから、1年3ヶ月という短い期間ではあったけど楽しかったですね。
―そんな状況から、さらに環境を変えようと思ったのは何かきっかけがあったんですか?
2016年だったかな。1ヶ月ちょっとくらい研修で台湾に行かせてもらうんですけど、その時期に水戸芸術館の(現代美術センター芸術監督だった)浅井(俊裕)さんが病気で伏せっていらっしゃるという話を聞いて。海外研修に行っていた他のキュレーターも海外の美術館に行くことが決まったり、チームの人数が足りないということだったんです。僕は地元が茨城県のつくばで、水戸とは少し距離は離れているんですけど、帰国の準備をしているときに浅井さんから「故郷の茨城に帰ってきませんか」とメッセージが来て。その時点では面識もなかったので戸惑いましたね。
―それはどういう意味ででしょうか?
いや、これはどう受け取ったらいいんだろう…って。ただ、その後に水戸芸の同僚になる人は昔から知っている人だったんで、その人から「とりあえず話を聞いてみないか」と言われて。結局、その一週間くらい後に浅井さんが亡くなってしまって、21世紀美術館に相談したら「そういう事情なら止められないでしょ」と。21世紀美術館と水戸芸は共同事業を準備していたので、浅井さんの訃報は21美の中でも衝撃的だったんです。
―そうだったんですね。山峰さんの来歴に触れる際には水戸芸術館時代に企画された中谷芙二子さんの展覧会
の名前がよくあがりますけど、中谷さんもフィジカルな作品とメディアアートの両側面があるという点で山峰
さんと共通する部分がある気がしますよね。だいぶ年代も違う方なのに不思議ですけど。
そういう意味でいうと、中谷さんは僕が学んできた世界の源流に当たる方なので、ずっと関心を持っていました。中谷さんは“霧の彫刻”という霧を発生させる作品で知られているんですが、それは自然環境への想像力を喚起させるし、ビデオを通した活動は情報が溢れる時代への抵抗でもあったし、今こそ必要な思想だと思ったんですよね。それで歴史を紐解いていくと、1960年代にもすでに多くのインターメディアに関する議論がされていて興味深かったです。
―ひとつの潮流になっていたんですね。
当時、インターメディアという文脈では50年代にメディアアーティストの山口勝弘や現代音楽家の湯浅譲二が参加した実験工房というグループの面々や、建築家の磯崎新なんかが活動していてい、その流れが’70年の大阪万博へつながっていきました。中谷さんもアメリカのE.A.T.(Experiment in Art and Technology)というグループを通じて大阪万博に関わっていたので、盟友の磯崎さんが建築を手掛けて、その後委員として関わっていたから水戸芸で個展をやってくれたんですよね。
―新しい表現という文脈のある場所だったんですね、水戸芸が。
そうですね、僕自身はアートの中心というより、そういったオルタナティブな領域のアートや、横断的なカルチャーのエッジに立って新しい表現を追求しているような人たちのことに関心を持って関わってきたんです。元々、学生時代の先生のひとりに萩原朔美さんっていう人がいて、彼もビデオアートの先駆者ですし、天井桟敷のメンバーでもあった人なので、学生の頃からそういう影響を受けてたと思います。
―寺山修司がやっていた前衛演劇の劇団ですよね。
はい。そういうことに触れていくうちに、僕自身もオルタナティブの系譜っていうのを歴史的に見ていくようになったと思います。
―でも、何がオルタナティブかを理解するには、まず何がネイティブかを知らないといけないですよね。
そうですよね。それこそ萩原朔美さんが坂東玉三郎さんと7、8年くらい前に多摩美の講演会で話していたんですけど、そのときに玉三郎さんが「みなさん型破り、型破りってよく言うじゃない? でも、型を持ってもいないのに(トレーニングしてきてもいないのに)型なんて崩せないでしょ。それはただの型なしよ」って言っていました。
―伝統芸能の方が言うと、余計に説得力がありますね。
それがいまだに心に残っていて。だから、アヴァンギャルドなことをやった昔の人たちっていうのはやっぱりすごいなと思います。思想的な背景がすごくあるし、情報が少ない時代にも王道をきちんと学んでいるし、自分から情報を取りに行く探究心がある。でも、今は情報が溢れているから探求しなくても、メジャーを通らなくても表面をなぞっていけばオルタナティブっぽいことだとか、格好よさそうなものはつくれちゃう。だけど、本当に大事なのは型と、それを破ることとの関係性。型が強くないと破ったときのインパクトも出ないじゃないですか。
―そんな状況から、さらに環境を変えようと思ったのは何かきっかけがあったんですか?
2016年だったかな。1ヶ月ちょっとくらい研修で台湾に行かせてもらうんですけど、その時期に水戸芸術館の(現代美術センター芸術監督だった)浅井(俊裕)さんが病気で伏せっていらっしゃるという話を聞いて。海外研修に行っていた他のキュレーターも海外の美術館に行くことが決まったり、チームの人数が足りないということだったんです。僕は地元が茨城県のつくばで、水戸とは少し距離は離れているんですけど、帰国の準備をしているときに浅井さんから「故郷の茨城に帰ってきませんか」とメッセージが来て。その時点では面識もなかったので戸惑いましたね。
―それはどういう意味ででしょうか?
いや、これはどう受け取ったらいいんだろう…って。ただ、その後に水戸芸の同僚になる人は昔から知っている人だったんで、その人から「とりあえず話を聞いてみないか」と言われて。結局、その一週間くらい後に浅井さんが亡くなってしまって、21世紀美術館に相談したら「そういう事情なら止められないでしょ」と。21世紀美術館と水戸芸は共同事業を準備していたので、浅井さんの訃報は21美の中でも衝撃的だったんです。
―そうだったんですね。山峰さんの来歴に触れる際には水戸芸術館時代に企画された中谷芙二子さんの展覧会の名前がよくあがりますけど、中谷さんもフィジカルな作品とメディアアートの両側面があるという点で山峰さんと共通する部分がある気がしますよね。だいぶ年代も違う方なのに不思議ですけど。
そういう意味でいうと、中谷さんは僕が学んできた世界の源流に当たる方なので、ずっと関心を持っていました。中谷さんは“霧の彫刻”という霧を発生させる作品で知られているんですが、それは自然環境への想像力を喚起させるし、ビデオを通した活動は情報が溢れる時代への抵抗でもあったし、今こそ必要な思想だと思ったんですよね。それで歴史を紐解いていくと、1960年代にもすでに多くのインターメディアに関する議論がされていて興味深かったです。
―ひとつの潮流になっていたんですね。
当時、インターメディアという文脈では50年代にメディアアーティストの山口勝弘や現代音楽家の湯浅譲二が参加した実験工房というグループの面々や、建築家の磯崎新なんかが活動していてい、その流れが’70年の大阪万博へつながっていきました。中谷さんもアメリカのE.A.T.(Experiment in Art and Technology)というグループを通じて大阪万博に関わっていたので、盟友の磯崎さんが建築を手掛けて、その後委員として関わっていたから水戸芸で個展をやってくれたんですよね。
―新しい表現という文脈のある場所だったんですね、水戸芸が。
そうですね、僕自身はアートの中心というより、そういったオルタナティブな領域のアートや、横断的なカルチャーのエッジに立って新しい表現を追求しているような人たちのことに関心を持って関わってきたんです。元々、学生時代の先生のひとりに萩原朔美さんっていう人がいて、彼もビデオアートの先駆者ですし、天井桟敷のメンバーでもあった人なので、学生の頃からそういう影響を受けてたと思います。
―寺山修司がやっていた前衛演劇の劇団ですよね。
はい。そういうことに触れていくうちに、僕自身もオルタナティブの系譜っていうのを歴史的に見ていくようになったと思います。
―でも、何がオルタナティブかを理解するには、まず何がネイティブかを知らないといけないですよね。
そうですよね。それこそ萩原朔美さんが坂東玉三郎さんと7、8年くらい前に多摩美の講演会で話していたんですけど、そのときに玉三郎さんが「みなさん型破り、型破りってよく言うじゃない? でも、型を持ってもいないのに(トレーニングしてきてもいないのに)型なんて崩せないでしょ。それはただの型なしよ」って言っていました。
―伝統芸能の方が言うと、余計に説得力がありますね。
それがいまだに心に残っていて。だから、アヴァンギャルドなことをやった昔の人たちっていうのはやっぱりすごいなと思います。思想的な背景がすごくあるし、情報が少ない時代にも王道をきちんと学んでいるし、自分から情報を取りに行く探究心がある。でも、今は情報が溢れているから探求しなくても、メジャーを通らなくても表面をなぞっていけばオルタナティブっぽいことだとか、格好よさそうなものはつくれちゃう。だけど、本当に大事なのは型と、それを破ることとの関係性。型が強くないと破ったときのインパクトも出ないじゃないですか。
“お仕着せの未来より、
自分の未来を生きたい“
“お仕着せの未来より、
自分の未来を生きたい“
―すごくよくわかります。
型が破れた瞬間の格好よさだけを見るんじゃなくて、型を破ることの重みを知らないといけないと思うんです。その重量が無いように感じてしまうことが、やっぱり多いんですよね。そういう意味で、情報が多くて乱雑でマイナーチェンジの再生産がしやすいこの時代に、本当に型破りっていうのはできるのかな…とも思います。
―メディアアートから入ってその後に現代美術を学ぶっていう、通常とはたぶん逆のルートを辿った山峰さんは
逆説的にそこに意識的になれたんでしょうか?
おっしゃる通りで、たまたま入ったって言ったら変ですけど、僕は美術史じゃないところからアートの世界に入っちゃったので、逆引き美術史みたいに後から勉強していったところがあって。写真も現代美術も状況が先にあって慌てて勉強してきたっていうのが本当に正直な感覚で、自分の人生の不思議なところです。一生懸命、つじつまを合わせている。
―新しい分野に飛び込んだ後の苦労は想像に難くないですね。
だけど、写真美術館にはすごくいい出会いがありました。写真史家の金子隆一さんという方がいたんですね。もう亡くなってしまったんですけど、元々お坊さんで愛されキャラで、話し手としてもすごくおもしろい人で僕はその人に本当にお世話になったんです。僕は制作側から来た人間で、メディア芸術祭にいたときに現場を回す仕事は覚えたんですが、写真美術館に入ったときにエッセイがまったく書けなかったんですよ。同じ分野の先輩もいなかったし、論文を書いてきた経験がないので途方に暮れていました。
―先輩たちには当たり前のことすぎて、書けない人の心境がいまいちわからなかったんでしょうね。
でも、自分が上手く書けない理由を金子さんに教えられたというか。それは、自分の中に歴史観がなかったから。それで金子さんに相談したんです。「僕はこういう風な背景でこの業界に入ってきちゃったんです。シアタープロダクションもパフォーミングアートも好きです。オルタナティブな世界も好きだし、映画にもニューメディアにも触れてきました」と。そのときいたのは映像部門だったんですけど、「映像メディアの発達史だとか、ドキュメンタリーの社会学みたいなことやジャーナリズムにもすごく関心はあって、自分の中ではそれが今の仕事に関わっているとは思うんです。ただ、やっぱりそこに対しての軸がまだ持てていないから、そういうことが書かれている本とかって無いですか?」と金子さんに聞いて。
―ご自身の現状は把握されていたと。
そうしたら、「そういうものを読むのもいいけど、自分がなぜ今そういうものに問題意識を持っているか、そこにたどり着いたのか、自分なりの歴史観を持て」と言われて。それを聞いてハッとさせられたんです。そうか、歴史観は読んで覚えるものじゃなく、自分でつくるものなんだなと。
―自分の視点で歴史を捉えろということですか?
はい。最初に「年表をつくってみろ」と言われて、僕は愚直にいろんな人が書いた年表をまず読むわけなんです。ビデオアートの歴史だとか、メディア史だとかの。だけど、何か違うなとずっと感じていました。それで、だんだんそういう年表の気になるところに丸をつけたり、そこに付け足したりするようになってきて。そうやっていると、だんだん自分の中で、ここはすごく大事だなって思うところが出てくるんです。そうか、これを軸と考えて話せばいいのか! と気づいて、その後10年以上続く自分の視点っていうものが生まれた気がします。
―そうなると、周りと違う経歴を経たアドバンテージもやっぱりあったんじゃないでしょうか?
あったと思いますよ。そういう意味では中谷さんの展覧会ができたのも、中谷さんご自身がいわゆる美術史の系譜をなぞる人じゃなくて、社会の状況に対して自分なりの問題意識を持って向き合ってきた人だったからなんだろうなと思います。それで展覧会のカタログに向けて話を聞いていた中で、「これからの時代に向けてメッセージはありますか?」ってインタビューしたら、彼女が「私は私の時代を一生懸命生きてきたのよ」と言っていたのをよく覚えています。
―すごく印象的な言葉ですね。
美術館とか学芸員っていうのはエスタブリッシュメント…価値付けっていうこととすごく関わっていると思うんです。つまり、もう価値があると言える状態のものか、価値が定まっているものにフォーカスして、それを権威として丁重に扱うという世界。でも、中谷さんに「私は私の時代をやってきたんだから、山峰さんは山峰さんの時代をしっかり生きるのよ」と言われたときに、自分が知らないうちに内側に持っていた価値観に結構ショックを受けて。自分はエクスペリメンタルなところから来たつもりでいたけど、この10年間で気づかないうちにすっかりそういう人間になっていたんだなって。
―無意識のうちに体制的な考え方を受け入れてしまっていたんですね。
それはもうひとつ、水戸芸時代に「ハロー・ワールド」展をやったときにも感じました。それは、露骨に社会批評的なテーマを持ってやった展示だったんです。テクノロジーが見せる夢が壊れた先、みたいな。
―サイバーパンクの世界ですね。
そうですね。王道のディストピアを一回ぶち込んでやろうと(笑)。でも、そのときボランティアをやってくださっていた方に「山峰さんのやりたいことはすごくよくわかりました。でも、それを直球でぶつけられた私たちはどうすればいいんでしょうか…」と言われて。そういう気づきを明示していくことがキュレーターで、それが影響を与えて社会は勝手に動いていくものだとどこかで信じていたというか、頼り切っていたんだと思います。でも、そんな困難な状況ばかりを突きつけられても困るよなと感じて、それからはその気づきを自分自身で受け取って走ってみようと思うようになりました。それで、自分の時代にコミットしようと。
―すごくよくわかります。
型が破れた瞬間の格好よさだけを見るんじゃなくて、型を破ることの重みを知らないといけないと思うんです。その重量が無いように感じてしまうことが、やっぱり多いんですよね。そういう意味で、情報が多くて乱雑でマイナーチェンジの再生産がしやすいこの時代に、本当に型破りっていうのはできるのかな…とも思います。
―メディアアートから入ってその後に現代美術を学ぶっていう、通常とはたぶん逆のルートを辿った山峰さんは逆説的にそこに意識的になれたんでしょうか?
おっしゃる通りで、たまたま入ったって言ったら変ですけど、僕は美術史じゃないところからアートの世界に入っちゃったので、逆引き美術史みたいに後から勉強していったところがあって。写真も現代美術も状況が先にあって慌てて勉強してきたっていうのが本当に正直な感覚で、自分の人生の不思議なところです。一生懸命、つじつまを合わせている。
―新しい分野に飛び込んだ後の苦労は想像に難くないですね。
だけど、写真美術館にはすごくいい出会いがありました。写真史家の金子隆一さんという方がいたんですね。もう亡くなってしまったんですけど、元々お坊さんで愛されキャラで、話し手としてもすごくおもしろい人で僕はその人に本当にお世話になったんです。僕は制作側から来た人間で、メディア芸術祭にいたときに現場を回す仕事は覚えたんですが、写真美術館に入ったときにエッセイがまったく書けなかったんですよ。同じ分野の先輩もいなかったし、論文を書いてきた経験がないので途方に暮れていました。
―先輩たちには当たり前のことすぎて、書けない人の心境がいまいちわからなかったんでしょうね。
でも、自分が上手く書けない理由を金子さんに教えられたというか。それは、自分の中に歴史観がなかったから。それで金子さんに相談したんです。「僕はこういう風な背景でこの業界に入ってきちゃったんです。シアタープロダクションもパフォーミングアートも好きです。オルタナティブな世界も好きだし、映画にもニューメディアにも触れてきました」と。そのときいたのは映像部門だったんですけど、「映像メディアの発達史だとか、ドキュメンタリーの社会学みたいなことやジャーナリズムにもすごく関心はあって、自分の中ではそれが今の仕事に関わっているとは思うんです。ただ、やっぱりそこに対しての軸がまだ持てていないから、そういうことが書かれている本とかって無いですか?」と金子さんに聞いて。
―ご自身の現状は把握されていたと。
そうしたら、「そういうものを読むのもいいけど、自分がなぜ今そういうものに問題意識を持っているか、そこにたどり着いたのか、自分なりの歴史観を持て」と言われて。それを聞いてハッとさせられたんです。そうか、歴史観は読んで覚えるものじゃなく、自分でつくるものなんだなと。
―自分の視点で歴史を捉えろということですか?
はい。最初に「年表をつくってみろ」と言われて、僕は愚直にいろんな人が書いた年表をまず読むわけなんです。ビデオアートの歴史だとか、メディア史だとかの。だけど、何か違うなとずっと感じていました。それで、だんだんそういう年表の気になるところに丸をつけたり、そこに付け足したりするようになってきて。そうやっていると、だんだん自分の中で、ここはすごく大事だなって思うところが出てくるんです。そうか、これを軸と考えて話せばいいのか! と気づいて、その後10年以上続く自分の視点っていうものが生まれた気がします。
―そうなると、周りと違う経歴を経たアドバンテージもやっぱりあったんじゃないでしょうか?
あったと思いますよ。そういう意味では中谷さんの展覧会ができたのも、中谷さんご自身がいわゆる美術史の系譜をなぞる人じゃなくて、社会の状況に対して自分なりの問題意識を持って向き合ってきた人だったからなんだろうなと思います。それで展覧会のカタログに向けて話を聞いていた中で、「これからの時代に向けてメッセージはありますか?」ってインタビューしたら、彼女が「私は私の時代を一生懸命生きてきたのよ」と言っていたのをよく覚えています。
―すごく印象的な言葉ですね。
美術館とか学芸員っていうのはエスタブリッシュメント…価値付けっていうこととすごく関わっていると思うんです。つまり、もう価値があると言える状態のものか、価値が定まっているものにフォーカスして、それを権威として丁重に扱うという世界。でも、中谷さんに「私は私の時代をやってきたんだから、山峰さんは山峰さんの時代をしっかり生きるのよ」と言われたときに、自分が知らないうちに内側に持っていた価値観に結構ショックを受けて。自分はエクスペリメンタルなところから来たつもりでいたけど、この10年間で気づかないうちにすっかりそういう人間になっていたんだなって。
―無意識のうちに体制的な考え方を受け入れてしまっていたんですね。
それはもうひとつ、水戸芸時代に「ハロー・ワールド」展をやったときにも感じました。それは、露骨に社会批評的なテーマを持ってやった展示だったんです。テクノロジーが見せる夢が壊れた先、みたいな。
―サイバーパンクの世界ですね。
そうですね。王道のディストピアを一回ぶち込んでやろうと(笑)。でも、そのときボランティアをやってくださっていた方に「山峰さんのやりたいことはすごくよくわかりました。でも、それを直球でぶつけられた私たちはどうすればいいんでしょうか…」と言われて。そういう気づきを明示していくことがキュレーターで、それが影響を与えて社会は勝手に動いていくものだとどこかで信じていたというか、頼り切っていたんだと思います。でも、そんな困難な状況ばかりを突きつけられても困るよなと感じて、それからはその気づきを自分自身で受け取って走ってみようと思うようになりました。それで、自分の時代にコミットしようと。
―失敗を経て、そういう結論にたどり着いたことにすごく意味がある気がしますね。
マズローの五段階欲求の話じゃないですけど、借り物の価値観を追い求めているうちは、たぶん社会にコミットできてないんですよね。自分の中で今を生きるっていうことは、そういうお仕着せの何かから出ることですよね。
―そういう意味では、アートもファッションと似て非なるところがありそうですね。
似ていると思いますよ。展覧会って2回観る人ってあまりいないじゃないですか? たぶん、それはファッションで言えばショーで、そこには社会に向けた表現やメッセージがあると思うんです。でも、作品を買って家に置くとしたら、それを観るのは自分や親しい人でとてもプライベートなものなんですね。自分が着る服はそういう感覚です。要は、どんなものを持っていたいか、どんなふうに見られたいか、といった個人的な価値と繋がりが強いと思うんです。
―確かに。実際に山峰さんが一緒に暮らしたい服はどんな基準で選ぶんですか?
自分に馴染みそうかどうかです。テキスタイルにこだわったものとか、手触りや素材感がおもしろいものが好きですね。今のデザイナーだけじゃなく、トラディションに対する敬意もあるから、そういうブランドには惹かれます。あまり奇をてらったものより、そういう思想のあるものの方がいいですね。このパーカもそんなところが気に入っています。当たり前にそこにあることが馴染むデザインってすごいことだと思うんですよね。
―やっぱり、ワードローブにも自分の視点がちゃんと投影されているんですね。お仕着せじゃない、ご自身の価値観が。
僕はつくばのニュータウンで育ったんですけど、’90年代って僕らよりずっと上の世代が描いた夢の未来だったんだと思うんですよ。それが団塊の世代なのかはわからないけど。そういう時代って、均一な幸せがまず正しかったんですよね。良いものを持とうよ、みんなで平均をあげようよ、便利にしようよ、っていう。それがきっと、あの時代に目指すべき幸せだったんです。でも、僕は誰かが描いた未来をみんなで生きる、お仕着せの未来を生きるより、自分の未来を生きたいと思ったんです。それがあの時代…’90年代の僕の感覚で、だから僕はアンダーグラウンドなものとか、オルタナティブなものに惹かれるようになったんだと思います。何か、人間臭いものを…と。
―育ってきた時代への違和感が背中を押してくれたというのは、なんだか皮肉な話ですね…。
もちろん、それを否定するだけでは意味がなくて。実際に僕らはその時代の恩恵を受けているし、非難できるような立場じゃない。でも、ちょっとスピリチュアルかもしれないけど輪廻だとか、人間の魂と死の関係性とは…っていう議論や問いがなぜあるのかっていうと、人間は生まれて死んで、子供を残したり、命の巡りの中で喜んだり悲しんだりする生き物ですよね。すごく普通の話だけど、そこに重みがあるからなんです。人間の機微やその日々に価値があるっていうことを、芸術をやる以上は忘れちゃいけない。そして、それが美しくあって欲しいなって、僕は思います。
―失敗を経て、そういう結論にたどり着いたことにすごく意味がある気がしますね。
マズローの五段階欲求の話じゃないですけど、借り物の価値観を追い求めているうちは、たぶん社会にコミットできてないんですよね。自分の中で今を生きるっていうことは、そういうお仕着せの何かから出ることですよね。
―そういう意味では、アートもファッションと似て非なるところがありそうですね。
似ていると思いますよ。展覧会って2回観る人ってあまりいないじゃないですか? たぶん、それはファッションで言えばショーで、そこには社会に向けた表現やメッセージがあると思うんです。でも、作品を買って家に置くとしたら、それを観るのは自分や親しい人でとてもプライベートなものなんですね。自分が着る服はそういう感覚です。要は、どんなものを持っていたいか、どんなふうに見られたいか、といった個人的な価値と繋がりが強いと思うんです。
―確かに。実際に山峰さんが一緒に暮らしたい服はどんな基準で選ぶんですか?
自分に馴染みそうかどうかです。テキスタイルにこだわったものとか、手触りや素材感がおもしろいものが好きですね。今のデザイナーだけじゃなく、トラディションに対する敬意もあるから、そういうブランドには惹かれます。あまり奇をてらったものより、そういう思想のあるものの方がいいですね。このパーカもそんなところが気に入っています。当たり前にそこにあることが馴染むデザインってすごいことだと思うんですよね。
―やっぱり、ワードローブにも自分の視点がちゃんと投影されているんですね。お仕着せじゃない、ご自身の価値観が。
僕はつくばのニュータウンで育ったんですけど、’90年代って僕らよりずっと上の世代が描いた夢の未来だったんだと思うんですよ。それが団塊の世代なのかはわからないけど。そういう時代って、均一な幸せがまず正しかったんですよね。良いものを持とうよ、みんなで平均をあげようよ、便利にしようよ、っていう。それがきっと、あの時代に目指すべき幸せだったんです。でも、僕は誰かが描いた未来をみんなで生きる、お仕着せの未来を生きるより、自分の未来を生きたいと思ったんです。それがあの時代…’90年代の僕の感覚で、だから僕はアンダーグラウンドなものとか、オルタナティブなものに惹かれるようになったんだと思います。何か、人間臭いものを…と。
―育ってきた時代への違和感が背中を押してくれたというのは、なんだか皮肉な話ですね…。
もちろん、それを否定するだけでは意味がなくて。実際に僕らはその時代の恩恵を受けているし、非難できるような立場じゃない。でも、ちょっとスピリチュアルかもしれないけど輪廻だとか、人間の魂と死の関係性とは…っていう議論や問いがなぜあるのかっていうと、人間は生まれて死んで、子供を残したり、命の巡りの中で喜んだり悲しんだりする生き物ですよね。すごく普通の話だけど、そこに重みがあるからなんです。人間の機微やその日々に価値があるっていうことを、芸術をやる以上は忘れちゃいけない。そして、それが美しくあって欲しいなって、僕は思います。
山峰潤也|やまみね じゅんや
1983年生まれ、茨城県出身。文化庁メディア芸術祭事務局を経て、東京都写真美術館、金沢21世紀美術館、水戸芸術館現代美術センターにて、キュレーターとして勤務したのち、ANB Tokyoのディレクションを手掛ける。その後、文化・アート関連事業の企画やコンサルを行う株式会社NYAWを設立。展覧会のキュレーション、アートプロジェクトのプロデュースに始まり、雑誌やテレビなどの監修、執筆、講演、審査委員、国際機関による海外派遣などその活動は多岐にわたる。東京お台場トリエンナーレ2025アーティスティックディレクター、東京芸術大学特任教授、国立アートリサーチセンター外部アドバイザー、CIMAM(国際美術館会議)個人会員といった顔も持つ。
Instagram: @ junyayamamine
山峰潤也|やまみね じゅんや
1983年生まれ、茨城県出身。文化庁メディア芸術祭事務局を経て、東京都写真美術館、金沢21世紀美術館、水戸芸術館現代美術センターにて、キュレーターとして勤務したのち、ANB Tokyoのディレクションを手掛ける。その後、文化・アート関連事業の企画やコンサルを行う株式会社NYAWを設立。展覧会のキュレーション、アートプロジェクトのプロデュースに始まり、雑誌やテレビなどの監修、執筆、講演、審査委員、国際機関による海外派遣などその活動は多岐にわたる。東京お台場トリエンナーレ2025アーティスティックディレクター、東京芸術大学特任教授、国立アートリサーチセンター外部アドバイザー、CIMAM(国際美術館会議)個人会員といった顔も持つ。
Instagram: @ junyayamamine