1. Finest Fit Guide – 村上香住子 / KASUMIKO MURAKAMI


「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はジャーナリスト・作家の村上香住子さんの場合。

Photograph_Mina Soma
Text & Edit_Rui Konno

「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はジャーナリスト・作家の村上香住子さんの場合。

Photograph_Mina Soma
Text & Edit_Rui Konno

“パーティでジーンズ姿のジェーンが言うんですよ。
「何してるの?仮装大会?」みたいに“



―今日は村上さんが現在暮らしている鎌倉で撮影をさせていただきましたけど、淡いカーディガンがすごく映
えていました。


海辺ですし、やっぱり合いますよね。私自身は夏場以外は黒を着ることが多いんですけど、ウールだけどカシ
ミヤみたいな色合いのこの色を見て、すごく袖を通したいなと思ったんです。

―少しアイボリーがかったメランジの、独特な色ですよね。

はい。肌に馴染むっていうか、もう肌になっちゃうような感じで。この首の空き具合も好きなんですよ。あま
り高いところまで詰まってると窮屈だし、ダラっと空きすぎていても嫌で。正真正銘、“基本のキはここなんだ”
って教えてくれてるような1着だと思います。ジェーン(・バーキン)もいつも言ってました。「首周りは空け
ておかないと、顔が綺麗に見えないわ」って。

―何でも着こなせそうな彼女にも、そういうセオリーがあったんですね!

「写真に映るときは笑いなさい。そうすれば、10歳若く見えるから」とも言われましたね(笑)。

―チャーミングな人ですね。村上さんとジェーン・バーキンの長年の親交は存じてましたけど、最初の出会い
はいつだったんですか?


最初は私がマガジンハウスのパリ支局長になった1985年ですね。その前の年にエルメスからバーキンが発売さ
れたから、彼女の家でバッグの話を聞かせてもらったり、昔の写真を見せてもらったり。そんな取材をしたの
が最初でした。

―今日は村上さんが現在暮らしている鎌倉で撮影をさせていただきましたけど、淡いカーディガンがすごく映えていました。

海辺ですし、やっぱり合いますよね。私自身は夏場以外は黒を着ることが多いんですけど、ウールだけどカシミヤみたいな色合いのこの色を見て、すごく袖を通したいなと思ったんです。

―少しアイボリーがかったメランジの、独特な色ですよね。

はい。肌に馴染むっていうか、もう肌になっちゃうような感じで。この首の空き具合も好きなんですよ。あまり高いところまで詰まってると窮屈だし、ダラっと空きすぎていても嫌で。正真正銘、“基本のキはここなんだ”って教えてくれてるような1着だと思います。ジェーン(・バーキン)もいつも言ってました。「首周りは空けておかないと、顔が綺麗に見えないわ」って。

―何でも着こなせそうな彼女にも、そういうセオリーがあったんですね!

「写真に映るときは笑いなさい。そうすれば、10歳若く見えるから」とも言われましたね(笑)。

―チャーミングな人ですね。村上さんとジェーン・バーキンの長年の親交は存じてましたけど、最初の出会いはいつだったんですか?

最初は私がマガジンハウスのパリ支局長になった1985年ですね。その前の年にエルメスからバーキンが発売されたから、彼女の家でバッグの話を聞かせてもらったり、昔の写真を見せてもらったり。そんな取材をしたのが最初でした。


―村上さんがこの夏に上梓された『ジェーン・バーキンと娘たち』を拝読したんですが、長女のケイト・バリ
ーとの出会いもジェーンの取材だったんですよね?


そうなんです。何回目かの取材をするとなったとき、私がなかなかカメラマンを決められずにモタモタしてい
たらジェーンが「じゃあ、うちの子はどうかしら?」って。ケイトが写真を撮っているとは聞いていたけど、
何も作品を観たことがなかったからちょっと即決できないなぁ……って。ジェーンに「どんな写真を撮るの?」
って聞いたら、「あの子は素敵な写真を撮るのよ。画角もいいし」って。親の売り込みがすごいんですよ(笑)。

―それも大女優ですし、圧もすごそうですね(笑)、

それで、じゃあ一度(ケイトと)会いましょうって。私は彼女が撮るポートレイトが見たかったんですけど、
見せてくれたポートフォリオは花とか鳥、オブジェだとかばかりだったんで、これは判断が難しいなと……。
でも、娘が母親のポートレイトを撮るっていうのはおもしろいし、やってみようと思ったんです。

―それで、うまくいったんですか?

うーん。私は逆に娘だからこそ撮りにくいっていうのがあったんじゃないかなって思ってます。正面から撮っ
た写真はほとんどないし、目線は全然カメラに来ていなくて、どこか他所を見てる感じで。シャルロット(・
ゲンズブール)もそうだけど、あの一家はみんな恥ずかしがり屋なところがあって、目と目をバチッと合わせ
て話すような感じじゃなかったからだと思うんですけど。でも、実際一緒に撮影をしてみて、ケイトとはやた
らと気が合ったんですよね。

―そんな縁だったんですね。それぞれ個性も強い分、彼女たちの家庭はやっぱり普通とはちょっと違ったん
だなという気がします。


そうかも。ジェーンについて、私が一番驚いたのはローブ・ドゥ・ソワレ(夜会服)で。あるとき、みんなが
ドレスで集まるパーティがあったんですよ。そこに遅れてやって来たジェーンはジーンズに白いシャツってい
う姿で。それで「あなたたち、何してるの?仮装大会?」みたいに私たちに言うんですよ。肩出しのドレスや
ら華やかな帽子なんかを被ってるこっちがトゥーマッチなのかしら?って不安になるくらい。もう、ふたりと
いないわね。ああいう人は。

―まさしく型破りですね。ココ・シャネルのリトルブラックドレスの逸話を思い出します。

本当に、自分が思ったことを自由にやるのが一番エレガントだ、って彼女は思ってたと思います。そんなジェ
ーンの姿勢は、言外に私も習った気がする。ヘアにしたって、彼女の普段の髪型は洗ってそのままのような状
態で、美容院から出たらジェーンはいつもすぐに整えられたヘアをばさっと崩してました。何でも手を加えて、
自分のスタイルになっていないと気が済まなかったんだと思う。やっぱり、人がやってることと違うことをし
ようっていう精神があった気がします。何をやるにしてもどこか彼女は違っていて、自分だけの演出をしてた。
“当たり前のことをそのままやったら退屈よ!”っていうような姿勢を、言葉にこそしていなかったけど、私は
感じてました。

―やっぱり、強い意志のある人だったんですね。

ジェーンはいつも犬と一緒だったんだけど、移動でタクシーに乗るときに、ドライバーさんにすごく怒ってた
ことがあるの。聞いてみたら、その人が犬をトランクに乗せようとしたみたいで。ジェーンは「だったら私の
方がトランクに乗ってやるわ!」って言ってました(笑)。

―村上さんがこの夏に上梓された『ジェーン・バーキンと娘たち』を拝読したんですが、長女のケイト・バリーとの出会いもジェーンの取材だったんですよね?

そうなんです。何回目かの取材をするとなったとき、私がなかなかカメラマンを決められずにモタモタしていたらジェーンが「じゃあ、うちの子はどうかしら?」って。ケイトが写真を撮っているとは聞いていたけど、 何も作品を観たことがなかったからちょっと即決できないなぁ……って。ジェーンに「どんな写真を撮るの?」って聞いたら、「あの子は素敵な写真を撮るのよ。画角もいいし」って。親の売り込みがすごいんですよ(笑)。

―それも大女優ですし、圧もすごそうですね(笑)、

それで、じゃあ一度(ケイトと)会いましょうって。私は彼女が撮るポートレイトが見たかったんですけど、見せてくれたポートフォリオは花とか鳥、オブジェだとかばかりだったんで、これは判断が難しいなと……。でも、娘が母親のポートレイトを撮るっていうのはおもしろいし、やってみようと思ったんです。

―それで、うまくいったんですか?

うーん。私は逆に娘だからこそ撮りにくいっていうのがあったんじゃないかなって思ってます。正面から撮った写真はほとんどないし、目線は全然カメラに来ていなくて、どこか他所を見てる感じで。シャルロット(・ゲンズブール)もそうだけど、あの一家はみんな恥ずかしがり屋なところがあって、目と目をバチッと合わせて話すような感じじゃなかったからだと思うんですけど。でも、実際一緒に撮影をしてみて、ケイトとはやたらと気が合ったんですよね。

―そんな縁だったんですね。それぞれ個性も強い分、彼女たちの家庭はやっぱり普通とはちょっと違ったんだなという気がします。

そうかも。ジェーンについて、私が一番驚いたのはローブ・ドゥ・ソワレ(夜会服)で。あるとき、みんながドレスで集まるパーティがあったんですよ。そこに遅れてやって来たジェーンはジーンズに白いシャツっていう姿で。それで「あなたたち、何してるの?仮装大会?」みたいに私たちに言うんですよ。肩出しのドレスやら華やかな帽子なんかを被ってるこっちがトゥーマッチなのかしら?って不安になるくらい。もう、ふたりといないわね。ああいう人は。

―まさしく型破りですね。ココ・シャネルのリトルブラックドレスの逸話を思い出します。

本当に、自分が思ったことを自由にやるのが一番エレガントだ、って彼女は思ってたと思います。そんなジェーンの姿勢は、言外に私も習った気がする。ヘアにしたって、彼女の普段の髪型は洗ってそのままのような状態で、美容院から出たらジェーンはいつもすぐに整えられたヘアをばさっと崩してました。何でも手を加えて、 自分のスタイルになっていないと気が済まなかったんだと思う。やっぱり、人がやってることと違うことをしようっていう精神があった気がします。何をやるにしてもどこか彼女は違っていて、自分だけの演出をしてた。 “当たり前のことをそのままやったら退屈よ!”っていうような姿勢を、言葉にこそしていなかったけど、私は感じてました。

―やっぱり、強い意志のある人だったんですね。

ジェーンはいつも犬と一緒だったんだけど、移動でタクシーに乗るときに、ドライバーさんにすごく怒ってたことがあるの。聞いてみたら、その人が犬をトランクに乗せようとしたみたいで。ジェーンは「だったら私の方がトランクに乗ってやるわ!」って言ってました(笑)。


―エモーショナルなエピソードですね(笑)。村上さんの長いパリ暮らしがいかに濃い日々だったか、推して
測れる気がします。そもそも最初の渡仏はお仕事がきっかけだったんですか?


いえ、二十歳くらいの頃に私が最初に結婚した人がフランス人の学者だったんですよ。それでパリに行くこと
になったんですけど、相手の実家にはお手伝いさんがいて、義理のお父さんもいい学校を出て会社をつくった
ようなエリートで。朝に「ボンジュール」って三つ揃え姿で起きてくるような、そんな環境でした。すごく厳
しいパリのカトリックの家で、よく実業家の人たちを十何人も呼んで食事をしたりしている中で、私は当時は
フランス語もあんまりできなかったからすごく辛かったんです。それで街に出てみれば、そこら中で男女がキ
スしてるしで、こんな生活、嫌だ!って(笑)。

―そうだったんですね……。村上さんのお母さんは歌人だったと伺いましたけど、最初に自分の娘がフランス
へ嫁ぐと知ったときはどんな反応でしたか?


大喜びしてました(笑)。「私、ボードレールが好きだし、フランスのカルチャーも大好き!」って。

―可愛らしいお母さんですね(笑)。

母は子供の食事もつくらずに「今日は満月ね……。お団子食べましょう」とかって言ってる人でしたね。母の
両親がロスやホノルルで暮らしていたこともあって私も海外にすごく憧れがあったんですけど、そういう自由
な環境からいきなりそんな堅苦しい生活になったから余計に辛かったんです。それで何年かして、結局その人
とは別れることになって日本に帰ってきました。仕事をしなきゃいけないけど、やっぱり自分にできるとした
らフランス語だし、ずっと自分でも詩を書いたりしてたから、本の翻訳の仕事をやりたいなと思って。そのと
きはそれが目の前にある、ほとんど唯一のチョイスみたいな感じでした。

―大変だったフランス生活も、そこで活きてきたと。

元々書くのが好きだったし、フランス語もちょっとぐらいできたから。たまに通訳もしたりしていたら、ある
ときに講談社の方が「フランスの若い作家さんでいい人がいたら、うちから本、出せますよ」と言ってくれて。
それで何人か紹介して、そこから翻訳業が始まったの。私は新し物好きだし、既成のものよりも、まだ無名の
若い作家を有名にさせられたらいいな……なんて憧れも持ってたから。そのときの作家さんのひとりとはいま
だに仲良くしているんだけど、その人は当時ピエール・カルダンの広報の部長だったの。それで仕事の片手間
で小説を書いていてね。いまだに彼はサンジェルマンのすごいスノッブな家で暮らしていて、プロヴァンスに
別荘も持っていて。私が行ったときには白馬が横切って、白い鳥が飛んでいて。ピエール・カルダンに育てら
れた人だから、やっぱりすごいのよ。

―現在につながる村上さんのキャリアの原点にそんな出会いがあったんですね。

私は元々物書きになりたかったんです。でも、今でこそいろんな物書きの人がいると思うんですけど、私の時
代は物書きがおしゃれなんてしちゃいけないっていうような風潮がすごく強くて。みんな地味な格好で、見渡
してみてもおしゃれな人はほとんどいなくて。だけど、私は自分が新しいと思える格好で物を書くことにずっ
と憧れがあったの。例え、それが軽薄だと言われても。

―現代なら、それも含めて表現だと思われるでしょうけどね。村上さんの同世代で、ましてや当時の女性で、
日本の外でそういう経験ができた人は珍しいんじゃないでしょうか。


でも、私の母はあんな人だから、私も“母が喜ぶならいいかな”くらいのつもりで元々深く考えずにフランス行
きを決めたんです。私の母もあの時代に大学を出て恋愛結婚をしてるんだけど、実は当時にだって、男性と同
じように勉強しようとした女性ってたくさんいたと思うの。ただ、それが知られていないだけで。

―エモーショナルなエピソードですね(笑)。村上さんの長いパリ暮らしがいかに濃い日々だったか、推して測れる気がします。そもそも最初の渡仏はお仕事がきっかけだったんですか?

いえ、二十歳くらいの頃に私が最初に結婚した人がフランス人の学者だったんですよ。それでパリに行くことになったんですけど、相手の実家にはお手伝いさんがいて、義理のお父さんもいい学校を出て会社をつくったようなエリートで。朝に「ボンジュール」って三つ揃え姿で起きてくるような、そんな環境でした。すごく厳しいパリのカトリックの家で、よく実業家の人たちを十何人も呼んで食事をしたりしている中で、私は当時はフランス語もあんまりできなかったからすごく辛かったんです。それで街に出てみれば、そこら中で男女がキスしてるしで、こんな生活、嫌だ!って(笑)。

―そうだったんですね……。村上さんのお母さんは歌人だったと伺いましたけど、最初に自分の娘がフランスへ嫁ぐと知ったときはどんな反応でしたか?

大喜びしてました(笑)。「私、ボードレールが好きだし、フランスのカルチャーも大好き!」って。

―可愛らしいお母さんですね(笑)。

母は子供の食事もつくらずに「今日は満月ね……。お団子食べましょう」とかって言ってる人でしたね。母の両親がロスやホノルルで暮らしていたこともあって私も海外にすごく憧れがあったんですけど、そういう自由な環境からいきなりそんな堅苦しい生活になったから余計に辛かったんです。それで何年かして、結局その人とは別れることになって日本に帰ってきました。仕事をしなきゃいけないけど、やっぱり自分にできるとしたらフランス語だし、ずっと自分でも詩を書いたりしてたから、本の翻訳の仕事をやりたいなと思って。そのときはそれが目の前にある、ほとんど唯一のチョイスみたいな感じでした。

―大変だったフランス生活も、そこで活きてきたと。

元々書くのが好きだったし、フランス語もちょっとぐらいできたから。たまに通訳もしたりしていたら、あるときに講談社の方が「フランスの若い作家さんでいい人がいたら、うちから本、出せますよ」と言ってくれて。それで何人か紹介して、そこから翻訳業が始まったの。私は新し物好きだし、既成のものよりも、まだ無名の若い作家を有名にさせられたらいいな……なんて憧れも持ってたから。そのときの作家さんのひとりとはいまだに仲良くしているんだけど、その人は当時ピエール・カルダンの広報の部長だったの。それで仕事の片手間で小説を書いていてね。いまだに彼はサンジェルマンのすごいスノッブな家で暮らしていて、プロヴァンスに別荘も持っていて。私が行ったときには白馬が横切って、白い鳥が飛んでいて。ピエール・カルダンに育てられた人だから、やっぱりすごいのよ。

―現在につながる村上さんのキャリアの原点にそんな出会いがあったんですね。

私は元々物書きになりたかったんです。でも、今でこそいろんな物書きの人がいると思うんですけど、私の時代は物書きがおしゃれなんてしちゃいけないっていうような風潮がすごく強くて。みんな地味な格好で、見渡してみてもおしゃれな人はほとんどいなくて。だけど、私は自分が新しいと思える格好で物を書くことにずっと憧れがあったの。例え、それが軽薄だと言われても。

―現代なら、それも含めて表現だと思われるでしょうけどね。村上さんの同世代で、ましてや当時の女性で、日本の外でそういう経験ができた人は珍しいんじゃないでしょうか。

でも、私の母はあんな人だから、私も“母が喜ぶならいいかな”くらいのつもりで元々深く考えずにフランス行きを決めたんです。私の母もあの時代に大学を出て恋愛結婚をしてるんだけど、実は当時にだって、男性と同じように勉強しようとした女性ってたくさんいたと思うの。ただ、それが知られていないだけで。


“スタイルって、ずっと同じことを
続けていくうちにできるんだと思うんです“



―そうなんだろうなと感じます。その後に再渡仏されてからは、ジェーン・バーキン以外にもいろんな方にイ
ンタビューをされていたことが本に書かれていましたけど、そこに並ぶ名前がすごすぎてびっくりしました。


インタビューをした中で特に印象的だったのは、やっぱりデヴィッド・ボウイ。そのときは私も編集者ってい
う立場を忘れてギラギラしてたと思います(笑)。それまですごく派手だったボウイが、スーツを着出したり
して急に変わっていった時期で。実際会ったら、すごい人間離れした感じがする人で。私は第一声で「あなた
の目、うちの猫と一緒だ」って伝えてそこから始まったの。

―すごい幕開けですね!?(笑)

記事で読んでいた通りの金眼・銀眼(のオッドアイ)で。ボウイは「それは僕にとっては好意的なこと。子供
の頃はやんちゃで、喧嘩をしたときに一発くらっちゃったら目の色が変わったんだ」って言うの。

―重要な証言がサラッと出てきますね……!パティ・スミスにもインタビューされたんですよね?

はい。でも、私は若い頃のパティ・スミスがすごい好きだったんですけど、会えたのはそれからだいぶ経って
からで。それも日本で、六本木の楽屋でした。お嬢さんと一緒に来日してたんですけど、私がインタビューを
してるときもお嬢さんと話してばかりで。「これから何食べに行く?パスタのナントカってお店は?」、「あそ
こは嫌よ!」みたいな。

―ビッグネームにありがちですね。現場がコントロールできないその感じは(笑)。そうした人たちから言葉
やエピソードを引き出すには、何が大切なんでしょうか?


これというルールは決めていないけど、やっぱり大事なのはその人の雰囲気を見ることですね。こういうソフ
トな人だから、ゆったり話したほうがいいな、とか。漢語に“水は方円の器に随う”っていうのがあるんだけど、
お水っていうのは丸いお盆に入れたら丸くなるし、四角いのに入れたら四角くなるでしょう?最初に雑誌のお
仕事を始めたときからずっと考えていることだけど、結局私たち編集者はそういうふうにその形に沿ってあげ
ればいいんじゃないかって思ってるの。今は遠く離れていてもネットでインタビューするじゃない?でも、あ
れはその人の実際の雰囲気が感じられないし、どういう人なのかわからないから私は嫌ですね。

―そうやって向き合おうという気持ちが伝わったから、名だたる人たちも村上さんに心を開いてくれたんでし
ょうか?


パティ・スミスはずっとこっち向いてくれなくて大変でしたけどね(笑)。ジェーンも、私が最初に仲良くな
ったのはケイト・バリーだったから、ずっと友達のお母さんという感覚だったの。でも、彼女たちと一緒に京
都に旅行へ行ったことがあって、そのときにジェーンが重そうな荷物を持ってたから「私が持つわよ」って言
ったらジェーンは真顔で「あなたはそんなことしちゃダメよ!」って言うんです。それで、自分の荷物を私の
荷物ごと、お付きの人に預けている姿を見たとき、あぁ、ちょっとばかり私のことをお友達だと思ってくれた
のかなって。

―そういう何気ないことから伝わってくることってありますもんね。

そうですよね。でも、その旅のときに私は多分、何かぴらぴらした服を着てたんだと思うんですけど、ジェー
ンが「あなたね、夏はリネンで冬はカシミヤに限るわよ」って私に言ったの。それで、「私のこのブラウス、
もう一枚あるからあげるわ」ってゴソゴソ自分の荷物を漁っていて。覗いてみたら、同じ白いリネンのシャツ
が何枚もあるんです(笑)。

―すごい!スタイルアイコンのワードローブの形を垣間見た気がします……!

セルジュ・ゲンズブールのレペットのバレエシューズもそうだったみたいですね。でも、もらったはいいけど、
私はそのジェーンのシャツが死ぬほど似合わなくて(笑)。上質なリネンだし、そりゃあ涼しいわよ。でも、
襟ぐりは普通だけど袖が太くてブワッとしたシルエットで、私が着たら看護婦さんみたいで、「何これ?」っ
て。

―でも、きっとそのシャツはジェーン以上に似合う人はいないんじゃないですか?いろんな意味で。

それでも、こんなに似合わないことってある?って感じ(笑)。ただ、スタイルって多分、そうやってジェーン
みたいにずっと同じことを続けていくうちにできるんじゃないかとも思うんです。私はパリにいた頃はよくカフ
ェ・ドゥ・ラ・メリーに行っていたんだけど、いつも必ず同じ場所に座って、同じものを食べるの。そうしてい
るうちにお店の人ともだんだん知り合いになってきて、「髪型変えた?」とか、「今日はスカートなんだね」と
か、お互いに興味が湧いてくるの。気づいたら、その中で自分のスタイルができるんだと思う。バロックとルネ
ッサンスの間に、マニエリスムっていう短い時代があったんですけど、それは同じことを繰り返すっていうのが
美意識になっていて、私はそれが好きだったんですよ。そういうふうに、マニエリスムを自分のスタイルにでき
たら一番いいなって。

―そうなんだろうなと感じます。その後に再渡仏されてからは、ジェーン・バーキン以外にもいろんな方にインタビューをされていたことが本に書かれていましたけど、そこに並ぶ名前がすごすぎてびっくりしました。

インタビューをした中で特に印象的だったのは、やっぱりデヴィッド・ボウイ。そのときは私も編集者っていう立場を忘れてギラギラしてたと思います(笑)。それまですごく派手だったボウイが、スーツを着出したりして急に変わっていった時期で。実際会ったら、すごい人間離れした感じがする人で。私は第一声で「あなたの目、うちの猫と一緒だ」って伝えてそこから始まったの。

―すごい幕開けですね!?(笑)

記事で読んでいた通りの金眼・銀眼(のオッドアイ)で。ボウイは「それは僕にとっては好意的なこと。子供の頃はやんちゃで、喧嘩をしたときに一発くらっちゃったら目の色が変わったんだ」って言うの。

―重要な証言がサラッと出てきますね……!パティ・スミスにもインタビューされたんですよね?

はい。でも、私は若い頃のパティ・スミスがすごい好きだったんですけど、会えたのはそれからだいぶ経ってからで。それも日本で、六本木の楽屋でした。お嬢さんと一緒に来日してたんですけど、私がインタビューをしてるときもお嬢さんと話してばかりで。「これから何食べに行く?パスタのナントカってお店は?」、「あそこは嫌よ!」みたいな。

―ビッグネームにありがちですね。現場がコントロールできないその感じは(笑)。そうした人たちから言葉やエピソードを引き出すには、何が大切なんでしょうか?

これというルールは決めていないけど、やっぱり大事なのはその人の雰囲気を見ることですね。こういうソフトな人だから、ゆったり話したほうがいいな、とか。漢語に“水は方円の器に随う”っていうのがあるんだけど、お水っていうのは丸いお盆に入れたら丸くなるし、四角いのに入れたら四角くなるでしょう?最初に雑誌のお仕事を始めたときからずっと考えていることだけど、結局私たち編集者はそういうふうにその形に沿ってあげればいいんじゃないかって思ってるの。今は遠く離れていてもネットでインタビューするじゃない?でも、あれはその人の実際の雰囲気が感じられないし、どういう人なのかわからないから私は嫌ですね。

―そうやって向き合おうという気持ちが伝わったから、名だたる人たちも村上さんに心を開いてくれたんでしょうか?

パティ・スミスはずっとこっち向いてくれなくて大変でしたけどね(笑)。ジェーンも、私が最初に仲良くなったのはケイト・バリーだったから、ずっと友達のお母さんという感覚だったの。でも、彼女たちと一緒に京都に旅行へ行ったことがあって、そのときにジェーンが重そうな荷物を持ってたから「私が持つわよ」って言ったらジェーンは真顔で「あなたはそんなことしちゃダメよ!」って言うんです。それで、自分の荷物を私の荷物ごと、お付きの人に預けている姿を見たとき、あぁ、ちょっとばかり私のことをお友達だと思ってくれたのかなって。

―そういう何気ないことから伝わってくることってありますもんね。

そうですよね。でも、その旅のときに私は多分、何かぴらぴらした服を着てたんだと思うんですけど、ジェーンが「あなたね、夏はリネンで冬はカシミヤに限るわよ」って私に言ったの。それで、「私のこのブラウス、もう一枚あるからあげるわ」ってゴソゴソ自分の荷物を漁っていて。覗いてみたら、同じ白いリネンのシャツが何枚もあるんです(笑)。

―すごい!スタイルアイコンのワードローブの形を垣間見た気がします……!

セルジュ・ゲンズブールのレペットのバレエシューズもそうだったみたいですね。でも、もらったはいいけど、私はそのジェーンのシャツが死ぬほど似合わなくて(笑)。上質なリネンだし、そりゃあ涼しいわよ。でも、襟ぐりは普通だけど袖が太くてブワッとしたシルエットで、私が着たら看護婦さんみたいで、「何これ?」って。

―でも、きっとそのシャツはジェーン以上に似合う人はいないんじゃないですか?いろんな意味で。

それでも、こんなに似合わないことってある?って感じ(笑)。ただ、スタイルって多分、そうやってジェーンみたいにずっと同じことを続けていくうちにできるんじゃないかとも思うんです。私はパリにいた頃はよくカフェ・ドゥ・ラ・メリーに行っていたんだけど、いつも必ず同じ場所に座って、同じものを食べるの。そうしているうちにお店の人ともだんだん知り合いになってきて、「髪型変えた?」とか、「今日はスカートなんだね」とか、お互いに興味が湧いてくるの。気づいたら、その中で自分のスタイルができるんだと思う。バロックとルネッサンスの間に、マニエリスムっていう短い時代があったんですけど、それは同じことを繰り返すっていうのが美意識になっていて、私はそれが好きだったんですよ。そういうふうに、マニエリスムを自分のスタイルにできたら一番いいなって。


―すごくわかります。自分を縛るんじゃなく、心地よいバランスで自然とそうなったら粋ですよね。

思い返すと、ジェーンって格好こそマニッシュだったけど、ヘアスタイルとかはフェミニンだったでしょ。だ
から調和が取れていたんだなとも思うの。あのふわふわした雰囲気と泣きそうな顔で、ああいうギャルソンみ
たいな格好をするっていうのが黄金比だったんじゃないかしら。完璧なバランスが揃っていたんでしょうね。
まぁ、ジェーンもシャルロットも脚の長さが半端じゃなかったし、私はあの隣でジーンズを穿こうとは思えな
かったわね。打ちのめされちゃうから(笑)。

―(笑)。でも、こうして楽しい思い出を聞くほどに、昨年のジェーンの訃報は受け入れがたかったんじゃな
いかと感じてしまいます。


最初にニュースでそれを知って、それからしばらくはずっと実感がなかったです。それが変わったのは、やっ
ぱりお葬式のとき。ルー・ドワイヨンとシャルロットが母親のまっさらな棺の頭側を担いで教会に入ってきた
のを見て、あぁ、もうジェーンはいないんだっていう気持ちになって。そもそも女性は普通、重たい棺なんて
まず担がないのよ。そのときのふたりは黒い上下に白いシャツ、コンバースっていう姿で、お葬式に入れない
人たちの拍手の音が外から聞こえてきて。

―情景が浮かびますね……。

声をかけるとしたら、「よく頑張ったね」って言ってあげたかったな。あんなに重い病気なのに、それでも日
本に来たりしていて。亡くなる前日には孫へのプレゼントを買いにエルメスのお店に行って、最期も座ったま
ま亡くなっていたそうで、本当に自分が死ぬなんて思ってなかったんだと思うの。ちょっとできすぎたシナリ
オですよね。あの人の内側のパワーは、本当に最後まですごかった。

―ちょっと鳥肌が立つようなお話ですよね。現代にも、かつてのジェーンや村上さんのように、自分らしく生
きたいと思っている人たちがいるとして、どんなことを伝えたいですか?


それは“自分を解き放て”ですよ。みんな、普通に日本で暮らしているだけで、色んな面でガチガチに縛られて
しまってるじゃないですか。「周りがみんなこれを注文したから、私もそうしよう」みたいな。そうじゃなく
て自分が何を食べたいのか、何を望んでいるのか、そういう気持ちと向き合ってほしい。そうすれば、自分だ
けの人生が自然と生まれると思うから。おしゃれだってそう。ジェーンも言ってましたよ、「ずっと私は自分
のために、服を着るんだ」って。

―すごくわかります。自分を縛るんじゃなく、心地よいバランスで自然とそうなったら粋ですよね。

思い返すと、ジェーンって格好こそマニッシュだったけど、ヘアスタイルとかはフェミニンだったでしょ。だから調和が取れていたんだなとも思うの。あのふわふわした雰囲気と泣きそうな顔で、ああいうギャルソンみたいな格好をするっていうのが黄金比だったんじゃないかしら。完璧なバランスが揃っていたんでしょうね。まぁ、ジェーンもシャルロットも脚の長さが半端じゃなかったし、私はあの隣でジーンズを穿こうとは思えなかったわね。打ちのめされちゃうから(笑)。

―(笑)。でも、こうして楽しい思い出を聞くほどに、昨年のジェーンの訃報は受け入れがたかったんじゃないかと感じてしまいます。

最初にニュースでそれを知って、それからしばらくはずっと実感がなかったです。それが変わったのは、やっぱりお葬式のとき。ルー・ドワイヨンとシャルロットが母親のまっさらな棺の頭側を担いで教会に入ってきたのを見て、あぁ、もうジェーンはいないんだっていう気持ちになって。そもそも女性は普通、重たい棺なんてまず担がないのよ。そのときのふたりは黒い上下に白いシャツ、コンバースっていう姿で、お葬式に入れない人たちの拍手の音が外から聞こえてきて。

―情景が浮かびますね……。

声をかけるとしたら、「よく頑張ったね」って言ってあげたかったな。あんなに重い病気なのに、それでも日本に来たりしていて。亡くなる前日には孫へのプレゼントを買いにエルメスのお店に行って、最期も座ったまま亡くなっていたそうで、本当に自分が死ぬなんて思ってなかったんだと思うの。ちょっとできすぎたシナリオですよね。あの人の内側のパワーは、本当に最後まですごかった。

―ちょっと鳥肌が立つようなお話ですよね。現代にも、かつてのジェーンや村上さんのように、自分らしく生きたいと思っている人たちがいるとして、どんなことを伝えたいですか?

それは“自分を解き放て”ですよ。みんな、普通に日本で暮らしているだけで、色んな面でガチガチに縛られてしまってるじゃないですか。「周りがみんなこれを注文したから、私もそうしよう」みたいな。そうじゃなくて自分が何を食べたいのか、何を望んでいるのか、そういう気持ちと向き合ってほしい。そうすれば、自分だけの人生が自然と生まれると思うから。おしゃれだってそう。ジェーンも言ってましたよ、「ずっと私は自分のために、服を着るんだ」って。


村上香住子|むらかみかすみこ

1942年生まれ、福岡県出身。数学者の父と歌人の母の間に六女として生まれ、10代から海外への憧れを募
らせる。縁あって渡仏し、翻訳や語学に携わるようになったのは本稿でも触れた通り。長い年月をパリで
過ごし、ファッションやカルチャーと接する日々を送ったのち、2005年に帰国。現在は鎌倉の海辺の古民
家で愛猫とともに暮らしている。今年7月に上梓した『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社)をはじめ、
自著多数。


Instagram: @ kasumiko.murakami

村上香住子|むらかみかすみこ

1942年生まれ、福岡県出身。数学者の父と歌人の母の間に六女として生まれ、10代から海外への憧れを募 らせる。縁あって渡仏し、翻訳や語学に携わるようになったのは本稿でも触れた通り。長い年月をパリで過ごし、ファッションやカルチャーと接する日々を送ったのち、2005年に帰国。現在は鎌倉の海辺の古民家で愛猫とともに暮らしている。今年7月に上梓した『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社)をはじめ、自著多数。


Instagram: @ kasumiko.murakami









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