「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はフォトグラファー、佐藤健寿さんの場合。
Photograph_Mina Soma
Text & Edit_Rui Konno
「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はフォトグラファー、佐藤健寿さんの場合。
Photograph_Mina Soma
Text & Edit_Rui Konno
“小さい頃から、クエスチョンマークが
残るものが好きだった”
“小さい頃から、クエスチョンマークが残るものが好きだった”
―ネイビーのカーディガン、新鮮でしたけど佐藤さんによく似合っていますね。
本当ですか。普段はあまり選ばない色なんですけどね。いつもだったら黒を買ってたと思います。
―確かに黒い服をよく着られているイメージはありました。意識的にそうされているんですか?
そうですね。僕、装飾のためのオシャレって、基本的にあまりしないんですよ。実用性で選ぶとやっぱり黒になっちゃう。単純に写真家としては写り込みがないっていう意味で黒がいいし、例えばどこかの国に行ったりしても黒が特別な意味を持つことってあまり無いので。警戒もされないし、簡単に言えば目立ちにくいってことですね。
―昔からご自身の服選びはそれが基準だったんですか?
いや、美術大学にいた頃はそれなりにファッションは好きでした。いわゆる裏原ブームみたいな時代で周りの友達にも服が好きな人もいたし、自分自身も原宿あたりでスナップされたりして。
―まさか佐藤さんから路上スナップの経験談を聞けるとは思ってませんでした(笑)。
ヒョウ柄のパーカとか、着てた気がします。ナンバーナインのだったかな。美大時代は髪型も金髪ボウズとかにしてたり、その後アメリカにいた時はブレードにしてたり。ドレッドにしてたこともありました。そういうのを経ての今です。
―変遷あってのミニマルさだったんですね。昔話が出ましたが、佐藤さんが世界中の不思議な場所を訪ねるようになった経緯を改めて聞かせてもらえますか?
インタビューではよく話してるんですけど、アメリカ、サンフランシスコが最初です。向こうの大学の課題で、どこかの州で何かしら撮影をしてこい、っていうのがあって。それで、サンフランシスコからどこに行こうと思ったとき、昔から興味があったネバダ州が隣にあったんですよ。ネバダ州ってアメリカの滅茶苦茶なものが1番詰まってるところだと僕は思っていて。ラスベガスの存在もそうですけど、昔、北の方のデスバレーで核実験をやってたりとか、バーニングマンもあの辺ですし。昔の西部劇の舞台になってるワイルドウェスト、ゴールドラッシュがあった場所もネバダ州ですよね。
―そう言われてみると、確かに個性的なエピソードが多い場所ですね。
ネバダって響きも好きだし行こうかなと。それでふと、エリア51っていう場所があることを思い出して。ラスベガスから北に300キロくらいのところにある、UFOの聖地みたいな場所。そこに行けるかもしれないと思ってネットで調べました。20年前なのでそこまで細かく情報が出てるワケではなかったんですけど、おぼろげに行けそうだなと。それで実際に行ってみて、ゴールドラッシュ時代の廃墟っぽいところを撮影したりしながら、最終的には1冊の写真集にして学校で提出したらすごく受けが良かったんです。
―どんな部分が特に評価されたんでしょうか?
多分、アメリカ人はあえて着目はしないようなところだったのが良かったんだと思います。もちろんアメリカ人として知ってはいても、ゴールドラッシュやエリア51の奇妙さとかを、自分たちではあまり意識してなかったんでしょうね。それで、インスタも無かった当時にフリッカーっていう写真の共有サービスにアップロードしたら、ウィキペディアのエリア51の項目を書いてるっていう人から「写真を使わせてくれ」っていう連絡が来たんです。こういう場所ってそれまでもマニアの人が行ってコンパクトカメラで資料写真を撮ったりはしていたけど、写真家がちゃんと撮影したりはあまりしていなかったんだなと感じて、これは自分のテーマになるかもと思いました。
―ネイビーのカーディガン、新鮮でしたけど佐藤さんによく似合っていますね。
本当ですか。普段はあまり選ばない色なんですけどね。いつもだったら黒を買ってたと思います。
―確かに黒い服をよく着られているイメージはありました。意識的にそうされているんですか?
そうですね。僕、装飾のためのオシャレって、基本的にあまりしないんですよ。実用性で選ぶとやっぱり黒になっちゃう。単純に写真家としては写り込みがないっていう意味で黒がいいし、例えばどこかの国に行ったりしても黒が特別な意味を持つことってあまり無いので。警戒もされないし、簡単に言えば目立ちにくいってことですね。
―昔からご自身の服選びはそれが基準だったんですか?
いや、美術大学にいた頃はそれなりにファッションは好きでした。いわゆる裏原ブームみたいな時代で周りの友達にも服が好きな人もいたし、自分自身も原宿あたりでスナップされたりして。
―まさか佐藤さんから路上スナップの経験談を聞けるとは思ってませんでした(笑)。
ヒョウ柄のパーカとか、着てた気がします。ナンバーナインのだったかな。美大時代は髪型も金髪ボウズとかにしてたり、その後アメリカにいた時はブレードにしてたり。ドレッドにしてたこともありました。そういうのを経ての今です。
―変遷あってのミニマルさだったんですね。昔話が出ましたが、佐藤さんが世界中の不思議な場所を訪ねるようになった経緯を改めて聞かせてもらえますか?
インタビューではよく話してるんですけど、アメリカ、サンフランシスコが最初です。向こうの大学の課題で、どこかの州で何かしら撮影をしてこい、っていうのがあって。それで、サンフランシスコからどこに行こうと思ったとき、昔から興味があったネバダ州が隣にあったんですよ。ネバダ州ってアメリカの滅茶苦茶なものが1番詰まってるところだと僕は思っていて。ラスベガスの存在もそうですけど、昔、北の方のデスバレーで核実験をやってたりとか、バーニングマンもあの辺ですし。昔の西部劇の舞台になってるワイルドウェスト、ゴールドラッシュがあった場所もネバダ州ですよね。
―そう言われてみると、確かに個性的なエピソードが多い場所ですね。
ネバダって響きも好きだし行こうかなと。それでふと、エリア51っていう場所があることを思い出して。ラスベガスから北に300キロくらいのところにある、UFOの聖地みたいな場所。そこに行けるかもしれないと思ってネットで調べました。20年前なのでそこまで細かく情報が出てるワケではなかったんですけど、おぼろげに行けそうだなと。それで実際に行ってみて、ゴールドラッシュ時代の廃墟っぽいところを撮影したりしながら、最終的には1冊の写真集にして学校で提出したらすごく受けが良かったんです。
―どんな部分が特に評価されたんでしょうか?
多分、アメリカ人はあえて着目はしないようなところだったのが良かったんだと思います。もちろんアメリカ人として知ってはいても、ゴールドラッシュやエリア51の奇妙さとかを、自分たちではあまり意識してなかったんでしょうね。それで、インスタも無かった当時にフリッカーっていう写真の共有サービスにアップロードしたら、ウィキペディアのエリア51の項目を書いてるっていう人から「写真を使わせてくれ」っていう連絡が来たんです。こういう場所ってそれまでもマニアの人が行ってコンパクトカメラで資料写真を撮ったりはしていたけど、写真家がちゃんと撮影したりはあまりしていなかったんだなと感じて、これは自分のテーマになるかもと思いました。
―偶然見つけた光明だったんですね。
それまで日本で美大に通いながらいろいろテーマを探してやったりしていたんですけど、身体感覚的に自分が納得できるテーマってやっぱりなくて、頭で出したようなものばかりで。本当にこれに興味があるのかって言ったらそうじゃないよなってことが多かったんです。でもエリア51は周りの受けも良かったし、自分としてもその旅が楽しかった。元々僕は美術をやりたいっていうよりは、単純に好奇心が強い人間だったんですけどその好奇心も満たせたし、面白いからこれをもっとやろうと。
―そこにフォーカスしてから、どんな場所を訪ねたんですか?
“子供の頃に気になってたものシリーズ”を、翌年から。例えばナスカの地上絵とか、マチュピチュとか。今でこそバックパッカーとかじゃなくても、行く人は増えましたけど…。
―行くための手段やサポートが整ってきてますもんね。
そうなんですよ。でも、当時はまだ全然で。ウユニ塩湖にもその頃に行きましたけど、20年前はまだ全然人がいませんでした。あと、昔ナチスドイツが南米にUボートで逃げて、そこでUFOをつくっていたっていう伝説があるんですよ。それって本当なのかな? と思って、ヒトラーが逃亡した先っていうのを探して撮影に行ったり。
―聞いただけでも気になります(笑)。
その翌年には雪男っていうのは一体なんだったんだろうと思って、ヒマラヤに行きました。そんな風に撮影しながらネットで適当に発表してたら、「日本で本にしませんか?」っていう連絡が来て最初の本ができたんです。それで本を出したらいろんな雑誌とかウェブメディアから仕事のお話が来るようになって、それをやっていくうちにどんどんテーマが広がっていって、2010年に『奇界遺産』としてまとめたという感じです。
―そのあたりからが、多くの人が認識してる佐藤さんのキャリアですよね。“子供の頃に気になってた”という言葉がありましたけど、佐藤さんは子供の頃から奇界に惹かれる感覚があったんですか?
めちゃくちゃマニアとかではないですけど、普通の人より好きではあったと思います。小さい頃から、クエスチョンマークが残るものが好きだったんですよ。映画とかでも、最後どうなったの!? っていう終わり方のものが好きだったり。“びっくり”か“クエスチョン”どちらかがあるものが良くて、すごく単純なんですけど、いまだにそんな感じです。
―佐藤さんもやっぱりコロナ禍で海外渡航がかなり途絶えていたと聞いていたんですけど、パンデミックの前後で旅に変化はありましたか?
あまりないですけど、結局コロナから始まってウクライナとロシアの問題とか、世界が荒れ出したので行く場所をちょっと選ばないといけなくはなったと思います。
―特に佐藤さんくらいになると渡航歴も特殊でしょうし、余計にセンシティブですよね。
だから僕、アメリカとかは大使館でインタビューを受けてビザを発行してもらわないと入れないんですよ。イランと北朝鮮とイエメンと、敵対国に全部行ってるから。昔、軍事政権だった時のミャンマーに入ろうとしたときにも日本でビザを取らなきゃいけなかったんですけど、そこで「フォトグラファーです」と言ったら審議みたいになっちゃって。「来週もう一回来て、その時にお前の仕事も持ってこい」と言われたから『奇界遺産』のポートフォリオを渡したら、向こうで爆笑が起こっててOKが出ましたね。
―(笑)。でも、そこで大使館が危惧したのはある種の偏向思想や目的だと思うんですけど、佐藤さんの活動や視点ってずっとニュートラルですよね。
元々割と中庸というか、まぁニュートラルな方ではあったと思います。ファッションの話に戻すと、昔はお話した通りいろんな服を着てたんです。でも、後になって考えたときに気づいたんですけど、何かっぽい格好っていうのが僕は苦手だったんです。ファッションにはコスプレ的な部分があると思うんですけど、例えばあるジャンルの音楽をやる人がみんなそれっぽい格好をするのは何でだろうと、昔から感じることが多くて。ある仕事をしてる人だったり、ある文化の中にいる人はそれっぽい格好をするっていうカルチャーがあると思うんです。なぜかそれが昔から苦手でした。だから写真家っぽく見られたいとも思わないですし。
―帰属意識を強めるのかもしれないですけど、もっと慣習的な感じがしますよね。
撮影でも、例えばどこかに行ったら現地の人に馴染んで...というフォトグラファーのアプローチが褒められがちだったりしますけど、実際は関係性は非対称なはずなんです。こちらはあくまで撮影して、最後はそれを本にしたりしてる訳じゃないですか? もちろん彼らにそれを説明はしてるけど、それが実際にどれくらいの規模で見られるとか、そういうことは想像できないだろうし、やっぱり撮る側と撮られる側はどこまでいっても対称的な関係ではないんです。そこをちゃんと認識しないと、騙してるような気持ちになってしまうから。
―偶然見つけた光明だったんですね。
それまで日本で美大に通いながらいろいろテーマを探してやったりしていたんですけど、身体感覚的に自分が納得できるテーマってやっぱりなくて、頭で出したようなものばかりで。本当にこれに興味があるのかって言ったらそうじゃないよなってことが多かったんです。でもエリア51は周りの受けも良かったし、自分としてもその旅が楽しかった。元々僕は美術をやりたいっていうよりは、単純に好奇心が強い人間だったんですけどその好奇心も満たせたし、面白いからこれをもっとやろうと。
―そこにフォーカスしてから、どんな場所を訪ねたんですか?
“子供の頃に気になってたものシリーズ”を、翌年から。例えばナスカの地上絵とか、マチュピチュとか。今でこそバックパッカーとかじゃなくても、行く人は増えましたけど…。
―行くための手段やサポートが整ってきてますもんね。
そうなんですよ。でも、当時はまだ全然で。ウユニ塩湖にもその頃に行きましたけど、20年前はまだ全然人がいませんでした。あと、昔ナチスドイツが南米にUボートで逃げて、そこでUFOをつくっていたっていう伝説があるんですよ。それって本当なのかな? と思って、ヒトラーが逃亡した先っていうのを探して撮影に行ったり。
―聞いただけでも気になります(笑)。
その翌年には雪男っていうのは一体なんだったんだろうと思って、ヒマラヤに行きました。そんな風に撮影しながらネットで適当に発表してたら、「日本で本にしませんか?」っていう連絡が来て最初の本ができたんです。それで本を出したらいろんな雑誌とかウェブメディアから仕事のお話が来るようになって、それをやっていくうちにどんどんテーマが広がっていって、2010年に『奇界遺産』としてまとめたという感じです。
―そのあたりからが、多くの人が認識してる佐藤さんのキャリアですよね。“子供の頃に気になってた”という言葉がありましたけど、佐藤さんは子供の頃から奇界に惹かれる感覚があったんですか?
めちゃくちゃマニアとかではないですけど、普通の人より好きではあったと思います。小さい頃から、クエスチョンマークが残るものが好きだったんですよ。映画とかでも、最後どうなったの!? っていう終わり方のものが好きだったり。“びっくり”か“クエスチョン”どちらかがあるものが良くて、すごく単純なんですけど、いまだにそんな感じです。
―佐藤さんもやっぱりコロナ禍で海外渡航がかなり途絶えていたと聞いていたんですけど、パンデミックの前後で旅に変化はありましたか?
あまりないですけど、結局コロナから始まって、ウクライナとロシアの問題とか世界が荒れ出したので行く場所をちょっと選ばないといけなくはなったと思います。
―特に佐藤さんくらいになると渡航歴も特殊でしょうし、余計にセンシティブですよね。
だから僕、アメリカとかは大使館でインタビューを受けてビザを発行してもらわないと入れないんですよ。イランと北朝鮮とイエメンと、敵対国に全部行ってるから。昔、軍事政権だった時のミャンマーに入ろうとしたときにも日本でビザを取らなきゃいけなかったんですけど、そこで「フォトグラファーです」と言ったら審議みたいになっちゃって。「来週もう一回来て、その時にお前の仕事も持ってこい」と言われたから『奇界遺産』のポートフォリオを渡したら、向こうで爆笑が起こっててOKが出ましたね。
―(笑)。でも、そこで大使館が危惧したのはある種の偏向思想や目的だと思うんですけど、佐藤さんの活動や視点ってずっとニュートラルですよね。
元々割と中庸というか、まぁニュートラルな方ではあったと思います。ファッションの話に戻すと、昔はお話した通りいろんな服を着てたんです。でも、後になって考えたときに気づいたんですけど、何かっぽい格好っていうのが僕は苦手だったんです。ファッションにはコスプレ的な部分があると思うんですけど、例えばあるジャンルの音楽をやる人がみんなそれっぽい格好をするのは何でだろうと、昔から感じることが多くて。ある仕事をしてる人だったり、ある文化の中にいる人はそれっぽい格好をするっていうカルチャーがあると思うんです。なぜかそれが昔から苦手でした。だから写真家っぽく見られたいとも思わないですし。
―帰属意識を強めるのかもしれないですけど、もっと慣習的な感じがしますよね。
撮影でも、例えばどこかに行ったら現地の人に馴染んで...というフォトグラファーのアプローチが褒められがちだったりしますけど、実際は関係性は非対称なはずなんです。こちらはあくまで撮影して、最後はそれを本にしたりしてる訳じゃないですか? もちろん彼らにそれを説明はしてるけど、それが実際にどれくらいの規模で見られるとか、そういうことは想像できないだろうし、やっぱり撮る側と撮られる側はどこまでいっても対称的な関係ではないんです。そこをちゃんと認識しないと、騙してるような気持ちになってしまうから。
“どこにいたとしても自分があまり
変化しない方が好ましいんです“
“どこにいたとしても自分があまり変化しない方が好ましいんです“
―フェアトレードになっていないと。
うん、だから嫌なんです。だったらもうストレンジャーのまま入って、ストレンジャーとして出ていくぐらいの距離感のほうが自分にとっては嘘がない。無理矢理入って、無理矢理笑顔をつくってみたいなことをするよりは、そっちの方がいいなって。
―特に影響力のある人ほど、その辺りの規範意識は重要なんだろうなという気がします。
特に写真は、本当にすごい暴力装置になり得るので。『BEFORE THEY PASS AWAY』っていう有名な写真集があるんですけど、それはイギリスの写真家が世界各国の少数民族を撮影したもので、タイトルも“彼らが消えてしまう前に”とかっていう意味なんですよ。それが確かに写真はすごく良いし、世界中で受けたんです。でも、その後撮影された部族のいくつかが抗議活動を起こして。“勝手に消えるだなんて言うな”と。そこにはすごく非対称な前提的視点があるんだけど、撮る側も見る側も気づいてないんです。
―憶測ですけど、良かれと思ってやっている可能性すらありそうだなと感じました。
きっと“守らなきゃ”みたいな視点でやっているんだと思うんですけど、撮られた"彼ら"からしたら自分たちは普通に生きていて、消えたりなんてしないっていう気持ちがあるんですよね。それは別に撮る側の"私たち"と何も違わない。撮る側がそこに無自覚でさらに世界的にもヒットして多くの人が「素晴らしい」って言ってるけど、実はものすごく非対称な見方で。だったら「すいません」って言いながら撮らせてもらう方が誠実かな、っていう気がします。
―佐藤さんの活動を見ていて、写真に過剰なジャーナリズムやステートメントを込めないようにしているのかなというのは感じていました。
どうなんでしょう。結果的にそう見られることは全然いいんですけどね。ちょっと前に中央アジアで核実験をやっていた場所に撮影に行ったんです。で、その写真を見た人から「ソ連はこんな恐ろしい国なんですね。」とかって言われるんですけど、こっちは別にそういうことだけを言いたいわけではなくて。どうしてもそういうふうに切り取ると、ソ連だけが恐ろしい国だったっていうような一面的な理解になっちゃう。でも実際はそこに至るにはいろんな歴史的背景があって、例えばアメリカも同時期に核実験を行っていた。歴史のいろんな流れの中でそういう結果が生まれて、最後には奇妙な場所だけが残る。自分はただそれを見たいだけなんです。逆にそういうメッセージを発信してる人はすごい責任を背負ってるわけで、僕はそこまで責任は負いたくない。あくまで写真家という立場で自分をとどめておきたいんです。
―前後の文脈ごと、その“あくまで写真家”の意味を考えてもらえたら良いですね。
そもそもそんなに人に説教できるほど自分も勉強できてないですから。ただ、好奇心を持って撮影に行ってるうちにいろんなものを見てきた分、何も知らない人よりは多少知ってるくらいだと思っています。
―そんな中立の立場でも、訪れた先で特に感情を揺さぶられたようなエピソードがあれば教えていただけますか。
どこでもありますけど、例えばわかりやすい例だと北朝鮮に行ったときもそうでした。北朝鮮ってずっとガイドというか、要はこっちを監視する人が付くんですよ。僕の時もおじいちゃんと若い人が付いていたんだけど、最後、空港で別れ際にそのおじいちゃんに「私には夢があって、実は…いつか日本に行ってみたいんです」と言われたんです。「日本を見てみたい」って。やっぱり北朝鮮っていう国にとっては日本って敵なんですよ。彼も仕事上の立場としてそういう姿勢を取ってはいるんだけど、日本人のガイドをずっとやっているうちに、日本人にもいい人がいて、同じ人間なんだってことを実感してる。仕事上の立場での思想と彼個人の感情が、もう矛盾しちゃってるんですよ。それを最後に自分に言ってくれて。こっちとしても「そうだよな」と思うんですけど、そういうのってやっぱりネットとかだと言いづらいですよね。その辺のエピソードを話し出したらもうきりがないんです。
―でも、全員がそんな一個人の考えや感情と向き合うことは現実的に難しいから、○○人はこうだ、というような大きい主語で括って語られてしまうんでしょうね。
うん。つくづく不思議なことだなと思います。例えば誰かが新宿に来たとして、そこの店員が良くない人で嫌な思いをさせられたとして、「新宿って本当に性格悪い人ばっかりだよね」と言ったとしたら、「それはたまたま当たった店員が良くなかっただけでしょ?」ってみんな思うと思うんです。要は狭いエリアだからイメージが湧くんですけど、それがもうちょっと広がって、「東京って嫌な人ばっかりだよね」になると、「何となくわかるかな」って感じになったり。で、さらに広くなって、「日本って嫌な人ばっかりだよね」とかっていうような表現になると、なぜかネットではまかり通ったりする。主語が大きくなるほどなぜか雑な表現が可能になってくるっていうのがあって。
―確かに。普通は括りが大きいほどむしろ多様性は増すはずなのに、不思議ですね。
その主語の対象がわかるからではなく、むしろ具体的にイメージできなくなってくるからだと思います。
―フェアトレードになっていないと。
うん、だから嫌なんです。だったらもうストレンジャーのまま入って、ストレンジャーとして出ていくぐらいの距離感のほうが自分にとっては嘘がない。無理矢理入って、無理矢理笑顔をつくってみたいなことをするよりは、そっちの方がいいなって。
―特に影響力のある人ほど、その辺りの規範意識は重要なんだろうなという気がします。
特に写真は、本当にすごい暴力装置になり得るので。『BEFORE THEY PASS AWAY』っていう有名な写真集があるんですけど、それはイギリスの写真家が世界各国の少数民族を撮影したもので、タイトルも“彼らが消えてしまう前に”とかっていう意味なんですよ。それが確かに写真はすごく良いし、世界中で受けたんです。でも、その後撮影された部族のいくつかが抗議活動を起こして。“勝手に消えるだなんて言うな”と。そこにはすごく非対称な前提的視点があるんだけど、撮る側も見る側も気づいてないんです。
―憶測ですけど、良かれと思ってやっている可能性すらありそうだなと感じました。
きっと“守らなきゃ”みたいな視点でやっているんだと思うんですけど、撮られた"彼ら"からしたら自分たちは普通に生きていて、消えたりなんてしないっていう気持ちがあるんですよね。それは別に撮る側の"私たち"と何も違わない。撮る側がそこに無自覚でさらに世界的にもヒットして多くの人が「素晴らしい」って言ってるけど、実はものすごく非対称な見方で。だったら「すいません」って言いながら撮らせてもらう方が誠実かな、っていう気がします。
―佐藤さんの活動を見ていて、写真に過剰なジャーナリズムやステートメントを込めないようにしているのかなというのは感じていました。
どうなんでしょう。結果的にそう見られることは全然いいんですけどね。ちょっと前に中央アジアで核実験をやっていた場所に撮影に行ったんです。で、その写真を見た人から「ソ連はこんな恐ろしい国なんですね。」とかって言われるんですけど、こっちは別にそういうことだけを言いたいわけではなくて。どうしてもそういうふうに切り取ると、ソ連だけが恐ろしい国だったっていうような一面的な理解になっちゃう。でも実際はそこに至るにはいろんな歴史的背景があって、例えばアメリカも同時期に核実験を行っていた。歴史のいろんな流れの中でそういう結果が生まれて、最後には奇妙な場所だけが残る。自分はただそれを見たいだけなんです。逆にそういうメッセージを発信してる人はすごい責任を背負ってるわけで、僕はそこまで責任は負いたくない。あくまで写真家という立場で自分をとどめておきたいんです。
―前後の文脈ごと、その“あくまで写真家”の意味を考えてもらえたら良いですね。
そもそもそんなに人に説教できるほど自分も勉強できてないですから。ただ、好奇心を持って撮影に行ってるうちにいろんなものを見てきた分、何も知らない人よりは多少知ってるくらいだと思っています。
―そんな中立の立場でも、訪れた先で特に感情を揺さぶられたようなエピソードがあれば教えていただけますか。
どこでもありますけど、例えばわかりやすい例だと北朝鮮に行ったときもそうでした。北朝鮮ってずっとガイドというか、要はこっちを監視する人が付くんですよ。僕の時もおじいちゃんと若い人が付いていたんだけど、最後、空港で別れ際にそのおじいちゃんに「私には夢があって、実は…いつか日本に行ってみたいんです」と言われたんです。「日本を見てみたい」って。やっぱり北朝鮮っていう国にとっては日本って敵なんですよ。彼も仕事上の立場としてそういう姿勢を取ってはいるんだけど、日本人のガイドをずっとやっているうちに、日本人にもいい人がいて、同じ人間なんだってことを実感してる。仕事上の立場での思想と彼個人の感情が、もう矛盾しちゃってるんですよ。それを最後に自分に言ってくれて。こっちとしても「そうだよな」と思うんですけど、そういうのってやっぱりネットとかだと言いづらいですよね。その辺のエピソードを話し出したらもうきりがないんです。
―でも、全員がそんな一個人の考えや感情と向き合うことは現実的に難しいから、○○人はこうだ、というような大きい主語で括って語られてしまうんでしょうね。
うん。つくづく不思議なことだなと思います。例えば誰かが新宿に来たとして、そこの店員が良くない人で嫌な思いをさせられたとして、「新宿って本当に性格悪い人ばっかりだよね」と言ったとしたら、「それはたまたま当たった店員が良くなかっただけでしょ?」ってみんな思うと思うんです。要は狭いエリアだからイメージが湧くんですけど、それがもうちょっと広がって、「東京って嫌な人ばっかりだよね」になると、「何となくわかるかな」って感じになったり。で、さらに広くなって、「日本って嫌な人ばっかりだよね」とかっていうような表現になると、なぜかネットではまかり通ったりする。主語が大きくなるほどなぜか雑な表現が可能になってくるっていうのがあって。
―確かに。普通は括りが大きいほどむしろ多様性は増すはずなのに、不思議ですね。
その主語の対象がわかるからではなく、むしろ具体的にイメージできなくなってくるからだと思います。
―自分の感覚で、価値観で判断ができなくなってしまうのは怖いし、悲しいですよね。佐藤さんがニュートラルでいる理由が少しわかった気がします。服装もその姿勢の表れなのかなと。
僕は日本でも海外でもまったく変わらないですね。海外に行くからと過剰におしゃれをしていくのも嫌だし、逆に過剰にラフにするのも嫌なんです。要はどこにいたとしても自分があまり変化しない方が好ましいんです。だから、洋服で冒険しようとは思わないですね。
―今日のカーディガンもそんな視点で選ばれたんですか?
そうですね。普段の自分に馴染むか、海外に持っていけるかとか、そんなことを考えながら選びました。あと、ジョン スメドレーが生まれたイギリスって僕は世界で一番変な国だと思うんです。一見すごくシュッとしているけど、心の中に変態性があるというか。アメリカをつくったのもイギリスだし、雪男を発見したのもイギリス人だって言われてますし、良くも悪くも世界各地でおかしなことをやっている人たちだなと思います(笑)。僕は大学時代にアメリカにいましたけど、初めてイギリスに行ったときに、イギリスに来ればよかったなとすごく思ったんです。
―それはなぜでしょう?
イギリスの人って、あまり無理して笑わないじゃないですか。アメリカで一番キツかったのが、基本周りがみんな愛想がいいっていう状況で、あれがなかなか大変でした。イギリスでは別にムスッとしていてもいいし、普通に喋っていてもみんな皮肉が利いてて面白い。このカーディガンもオーセンティックに見えて、どこかひねくれている気がします。
―確かにボタンが無かったり、少し変わっていますよね。でも、やっぱりワードローブもあくまで旅を前提に選んでいるのがすごく佐藤さんらしいなと思いました。
多分、多くの人にとって旅っていうのはやっぱり非日常で、その非日常を楽しみたいわけじゃないですか。自分の場合だと、もう旅がある種の日常なので。別に家だとか事務所でくつろいでる時間も全然嫌いじゃないんです。でも、やっぱり旅先の宿にいるときが1番生きてる実感がある気がします。ちょっと大げさかもしれませんけどね。
―自分の感覚で、価値観で判断ができなくなってしまうのは怖いし、悲しいですよね。佐藤さんがニュートラルでいる理由が少しわかった気がします。服装もその姿勢の表れなのかなと。
僕は日本でも海外でもまったく変わらないですね。海外に行くからと過剰におしゃれをしていくのも嫌だし、逆に過剰にラフにするのも嫌なんです。要はどこにいたとしても自分があまり変化しない方が好ましいんです。だから、洋服で冒険しようとは思わないですね。
―今日のカーディガンもそんな視点で選ばれたんですか?
そうですね。普段の自分に馴染むか、海外に持っていけるかとか、そんなことを考えながら選びました。あと、ジョン スメドレーが生まれたイギリスって僕は世界で一番変な国だと思うんです。一見すごくシュッとしているけど、心の中に変態性があるというか。アメリカをつくったのもイギリスだし、雪男を発見したのもイギリス人だって言われてますし、良くも悪くも世界各地でおかしなことをやっている人たちだなと思います(笑)。僕は大学時代にアメリカにいましたけど、初めてイギリスに行ったときに、イギリスに来ればよかったなとすごく思ったんです。
―それはなぜでしょう?
イギリスの人って、あまり無理して笑わないじゃないですか。アメリカで一番キツかったのが、基本周りがみんな愛想がいいっていう状況で、あれがなかなか大変でした。イギリスでは別にムスッとしていてもいいし、普通に喋っていてもみんな皮肉が利いてて面白い。このカーディガンもオーセンティックに見えて、どこかひねくれている気がします。
―確かにボタンが無かったり、少し変わっていますよね。でも、やっぱりワードローブもあくまで旅を前提に選んでいるのがすごく佐藤さんらしいなと思いました。
多分、多くの人にとって旅っていうのはやっぱり非日常で、その非日常を楽しみたいわけじゃないですか。自分の場合だと、もう旅がある種の日常なので。別に家だとか事務所でくつろいでる時間も全然嫌いじゃないんです。でも、やっぱり旅先の宿にいるときが1番生きてる実感がある気がします。ちょっと大げさかもしれませんけどね。
佐藤健寿|さとうけんじ
1978年生まれ。世界各地を訪れ、奇妙な風景や不思議な光景を切り取るという無二の作風で広く知られる写真家。過去にはライカギャラリー東京、群馬県立館林美術館などで写真展を開催し、現在は「佐藤健寿展奇界/世界」が全国の美術館を巡回中。次回は2024年6月26日より大分市美術館で開催。著作に『奇界遺産』、『世界』ほか多数。
Instagram: @x51
佐藤健寿|さとうけんじ
1978年生まれ。世界各地を訪れ、奇妙な風景や不思議な光景を切り取るという無二の作風で広く知られる写真家。過去にはライカギャラリー東京、群馬県立館林美術館などで写真展を開催し、現在は「佐藤健寿展奇界/世界」が全国の美術館を巡回中。次回は2024年6月26日より大分市美術館で開催。著作に『奇界遺産』、『世界』ほか多数。
Instagram: @x51