揺らぎ、漂いながら、美の輪郭線をなぞる 語り 吉田直嗣
誰しもに調子の波があるけども、僕は「波にのれない日だな」と思えば仕事はしない。作業中でも眠い時は寝る。お昼寝、大事ですよ。人それぞれですけど、僕の場合は力むと先走って轆轤(ろくろ)が荒れるし結果的に潰しちゃう。意識的なインプットもしない。うつわも建築物も家具も好きだけど、わざわざ見に行くこともそうない。なんででしょうね。あんまり無理をしたくないのと多分、本当に自分にとって「見るべきもの」は運が良ければ「見れる」と思ってる。でなければご縁がなかったと。「見るべきもの」はきっとどこで見ても体から抜けずに残って、無意識下にわーっと重なって、たぷんと溢れたところに出るべくして出るのかも。その確認作業はしないけど。いいと思ったものがダイレクトに表れて辛いし。その感じも含めて、能動的には動かないのかな。
飽き性だけども、物体としての「うつわ」はずっと好き。自分のうつわならば、かたち。陶芸家として四半世紀経ってもそれはずっと変わらない。かたちを見せたいから、テクスチャーも色も基本的には要らないかな。僕の言うかたちは、頭の上にある「美しさってこんなもの」というふわっとした、言葉なのかイメージなのかもわからないもの。それを、僕が、見たい。その美しいものを僕が作りたい。自分の頭と手が直結して、そのまま澱みなく濁りなく、びゃーっと轆轤が挽けたら
どれだけいいか。できそうでできないんですよ。大失敗もないしイイ線いってるけど、ちがう。それが面白い。今のところ、僕の作品がそれに一番ちかい。しかも全部好み。ビックリするくらい、自分が好きなんですよ(笑)。だから、「あるかもしれない美しさ」を求め続けているけれど、そこへの正誤は正直なんでもいい。それまでの思索が楽しいし、僕がうつわをつくるきっかけであれば、なんだっていいんですよ。あんまりそれ以上のことは考えない。たとえば僕の手を離れたうつわがすぐに割れてしまっても、一族代々大事に使い継がれていってもいい。なんにせよ、それがそれであるべき姿だったんだろうと思うんです。
text_Yuria Koizumi photo_Shinya Fukuda