陶芸に生きて、生かされて 語り 安齊賢太
ニューヨークの展示で「陰影礼賛(いんえいらいさん)」と題してもらったことがあって。その言葉の意味が、自分のやりたいこととすごいよく合ってたんです。好きなんですよ、はっきりと見えることよりもよく目を凝らさないと見えないというか、大切にするみたいなところ。僕の作品もできれば見る人が好きに受け取って、想像してもらえる方がいいですね。自分から「こういう作品です」って説明するよりは。陶芸を始める前も今も、アテにできる知識がないんです。何がいいのか知らないし、わからない。僕が選んでも誰が選んでも「そっちがいいね」っていう、人間誰しもがもつ共通の感覚からくる取捨選択でしか作れなかったんです。ただその繰り返し。説明しづらいけど。まると四角だったらまるの方がやわらかいし、四角の方が硬いイメージ。それは皆一緒じゃないですか。そういう感覚って文化や教育とか関係なく沢山あると思うんです。
震災が起こって、僕の中で作っているものに対して一度リセットできました。ちょうど3 D プリンターを使い、人の手以上に細かな表現技術を叶えたセラミック作品が発表された時でもあります。同時多発的なそのインパクトから、技術やデザイン的に見せるよりはアフリカの工芸品やルオーの作品に感じるような、「ものとして圧力」のある作品を作らないとこの先仕事がなくなる、とも思いました。それで作ったのが、今の黒いやつです。ただ生活のため。生きるための糧。生きるためにひたすらする行為。それらが一番高尚なことだと思っていて。そうやって作られたものはとてもピュアで、エネルギーをかけて作られた分そのものからもエネルギーが発される。そういう、「ものとしての圧力」があるものでないと、と。
僕のものは、手間がかかりますが今の自分の技術ではそのほうがやりやすいんです。何度も手で磨いて、泥団子のような生の土の質感を出す。通った京都の陶芸の学校ではあんまり手をかけないほうが「てらい」がなくて良いと教わったけど、僕の場合はものすごく手を加える。それで出る「てらい」やいやらしさみたいなものを超えて出る圧と言うか、正直と言うか、真実だけで作りたいですね。